終わりなき旅
旅路に区切りはつくが、もとより終わりなど無い。
これが喜ばしい知らせになる人もあれば、悲報としてうけとる人もあるのだろう。
幸か不幸か「死ねば終わり」ではないのだ。“そんなことは生きてる内に判るわけない”と強く思われる向きもあるだろう。だが私は、いわゆる「あの世」へ「遷移した(つまり一般に“死んだ”と呼ばれている地点を通過した後である状態の)」人たちとずいぶん出会った。多くの人は、その人なりにお元気だ。仏壇にお供えするものは実際にあちらに出る。病を得て去った方々も、その後はいろいろだ。早々に苦痛を手放す方もあれば、しばらく苦痛を携える方もある。そして、いわゆる「この世」の側から、あちらの人のステップアップをお手伝いしたり、心からの贈り物をすることも不可能ではない。また、こちらで大変なときに助力をお願いすることができる場合もある。…まあ、縁(えにし)あってこそだが。
「現世」というこちらはスクランブル交差点みたいなものだ。波長の違ういろいろな人々が同一領域にあるので、「機会」を掴みやすい。対してあちらは波長が違うと全く出くわせない。ひたすらに己の波動を育てるようなチャレンジへ、自分自身の望みと意志と力と責任を頼りに取り組むことが唯一の機会となるから、ある意味では「死んでからが正念場」とも言える。自分の何を“持ち越す”か、考え無しでいない方が良いことは確かだ。ただ、ひとり孤独に放り出されるのかというと、そうではない。
細かく言えば、「この世」と「あの世」、そしてそのどちらでもない「中間域」がある。
「この世」は言わずと知れたいつもの生活域。
「あの世」はきっぱりと人生を完了した心が進む活動域。
「中間域」は所謂“成仏せずの宙ぶらりん”な心がうろうろしたり、現世への目的を持った強い“思い入れ”の心がしばし留まって目的を果たす作用を為すフィールドだ。「怪談のオバケ」として認識されるものは、この「中間域」のものばかりだ。
どの領域にあろうが、旅路は旅路なのだ。長いスパンで見れば皆いつか、一定の山を越える。そしてその先も旅路は続く。どんな旅を創造し、どんな経験をするかを選ぶことも当たり前に為して、たえず「奉仕のスタイル」を洗練してゆく。
旅に終わりが無いからといって、休まず癒しもないなどということはない。自分が閉ざさなければ、旅をともにする仲間も友もある。新しいチャレンジも尽きない。そう、尽きないのだ。天国や地獄みたいなテーマパークで遊んでいるヒマは、あまり無いだろう。
どうか最良の旅路を。
5/31/2024, 2:24:52 AM