理想のあなた…?
理想の個人とは、「純度の高い在り方」なのかな、と思う。
然るに、自分自身の内側を啓いて「自分自身である」のを現実のなかに顕すが最上にして最高。周りの人も地域も、ひいては世界も、その恩恵を受ける。それができるのは各個人、その人自身だけだ。
…ってところで何故「あなた」?
私が誰かに「理想のあなた」などと言われたら、まずその意味するところは何かを問うだろう。何を言いたいのかを。コノオダイ、イミワカラナイヨ。
もし、「私が理想とするあなたはね…」なんて始まれば、“はい、あーんして”と何か大きめおやつを頬張らせて、とっとと逃げる。他人からの「形の押し付け」なんて、呪い以外の何物でもないからだ。
「理想像への夢」が暴走している人間の認識齟齬は、ときに恐ろしい。私は昔、所謂“アラサー女子”に追いかけられたことがある。私が男性に見えたそうだ。…落ち着いたほうが、良い御縁を結べますよ。一見、誰もが同じものを同じように見ているようでいて、実は人それぞれ何がどう見えているかは皆違う。でもそれで良いのだ、多分。
理想が湧くのは、それが実際にちゃんと在るからだ。「こんなふうになりたい」と思うのは、「こんなふう」が自分自身の中に資質として既にあるものだ。本当に無いなら、そこに共鳴して引きつけられることも無い。これは確かなことだ。両手に根気を、心に辛抱強さを持って、輝くタネが芽吹くのを目指す道行きの姿が既に、理想を表現している。
そう思う。
突然の別れ、と考えると「晴天の霹靂のような」思いがけないケースでの別れが「突然」になりやすいか。
私の周辺の場合、事故的な理由によるものしか、「突然の別れ」という状況を見かけない。
しかし、所謂「永の別れ」が、突然なのはいただけない。心の準備もへったくれもない急な別れは、心に「いきなりむしり取られた痛み」が暫く残る。…あまり考えたくないお題だな…
どこかで元気に生きてる人なら「別れ感」は感じない。すわ、これっきりか!?…と思っても、消息が聞こえてきたりする。「おう、元気そうだな」と思えば胸の内は明るくなるし、なにより、縁あるならば、コミュニケーションが可能な場合が多い。
「死別」のいちばんの壁は、“直接的・間接的いずれもコミュニケーションが難しい、或いはできない”ことだと思う。
しかし何よりも、悲しい誤解と未完了を抱えた「別れ」は、生きていようが死んでいようが、胸の痛いものとして居座り続ける。それこそ先日のお題「後悔」が、鎮座してるか隣り合わせだ。
別れに引きずる痛みの無いように、オープンな自分で居たいな、と思う。努力目標だが…
恋物語
昔、漫画雑誌の中に「きになるあの人の愛は」などというページがあって、「きになるあの人」も居なかった私は、自分自身のデータが出す結果を見てみた。
曰く、「この人から本当の愛を得ることは非常に難しいでしょう」と。…おい、なんだって…? 続けて「この人はよほどのことがなければ人を愛しません。貴女が泣くだけの結果になりがちなので、やめておいたほうが良いでしょう」…ちょっと、これ自分の生年月日データで見てるんだけど。私がそんな奴だと言ってるのだよね…? 解せぬ。しかも、ほかの結果文はどれもみな「お花畑でキャッキャウフフ」な内容なのだ。解せぬ。ほとんどディスりではないか。このコーナーを書いた人はどこか虫の居所が悪かったのだろうか? だいたいそこに書かれている「本当の愛」って、どんな定義で書かれているんだろう? うむ、解せぬ。
そんなものを見たのも今は昔の35年ほど前だ。
で、実際どうだったんだ、というと、恋はした。そのとき自分の近くにその人が居なくて本当によかったと考えている。まるで満水のダムが一気に決壊するように、津波じみたエネルギーの心だったから。何もかもを圧倒的に押し流して、誰かを巻き込んではひどく傷つけることまで容易に想像がつく。少なくとも、勢いが時間のなかに落ち着いて、穏やかで絶えない流れになるまでは、近付くわけにはいかない…制御も不可能な自分自身の心のエネルギーを心底恐れた。執着心が植物の蔓のようにものすごい勢いでその人に向かって行くのを、全て焼き払った。何度でも、何十回でも、何百出たって全部焼き払う決意を通した。自分から出た執着の蔓がその人を縛るとかぞっとするし、自分自身を殺したくなることウケアイの想念だなんて冗談じゃない。愛するひとよ自由に飛べ。…しかしそのせいか、心が伝わってない気もするのだ…人は、静かだけど力強い心の響きでは「ちがう、コレじゃない。自分は失恋したんだ」と思い込んでしまうのだろうか……まあ、それでも私の心は変わらぬのだけどね。これはもう恋じゃない。愛だ、愛。釜爺(映画『千と千尋の神隠し』より)に加勢してもらいたいくらいだ。「わからんのか、愛だ、愛ッ!」
恋は大波、津波のよう。
愛は静かな流れのよう。
真夜中…、記憶に新しい気がするお題。
真夜中に真夜中のことを考え書くのもアレだな、と思っていたけど日が暮れてしまった…
真夜中、何かあったかな…と頭の中を漁る。無難なやつを。そう、無難なやつ。どう表そうか、はて。
心が弱りがちなとき…
真夜中には、やみのなかでながくたちどまってはいけない。真夜中には、確かな現実について焦点を当てるのがいい。真夜中のうちに、帰宅すべし。丑三つ時を過ぎないように。暗闇のなかから魅了を投げてくるものに近寄らないのがいい。これは一応大人に向けての文言だ。子どもが真夜中に家に居ないで外に居るのは論外だ。大抵の自治体で条例に引っかかる。
心を覇気で満たせるならば、何時でもまあ大丈夫だ。
愛があれば何でもできる?
失った手や脚を再び生やすことはできない。
苦しみの旅路(人生)を歩く人の道を、代わりに歩くことはできない。
…だいたいね、このお題って「引っ掛け問題」みたいな感じがするよ。「愛があれば何でもできる」わけないでしょ。「愛があればこそ叡智を以て動かず」ってこともたくさんあるんだから。雑なうえに乱暴な括りの言い回しでだいじなことを撹乱するばかりか、安直な思考停止へ誘導する危険のあるお題なんて、おかあさんゆるしませんよッ! 一歩間違ったら悪魔のささやきでしょうがッ! 愛の夢は良いものだと思うけど、屁理屈の妄想は論外です! 顔洗って出直してらっしゃい!!