そういえば四月朔日はエイプリルフールだった。
「嘘つきのパラドックス」は有名…だよね…?
攻殻機動隊のタチコマが言ったシーンも思い出す。
自己言及のパラドックスと言われ、「自分は嘘つきだ」と自己について言えば、それは結局、嘘つきか、そうでなく正直者なのか答えが出ない…というやつだ。
「自分は嘘つきだ」は自己申告だから、その言葉どおりに嘘を言うなら正直者ってこと?…となり、じゃあ「自分は嘘つきだ」が「正直者の言う真実」なら、嘘を言ってないことになり、そも嘘つきじゃないことになるから「自己申告の内容」は嘘だということになり、堂々めぐりになる。こう、書いてみると本当に小さく限定した範囲の理屈だ。
さて、「嘘つきのパラドックス」には「文脈・背景という前提」が無い。すると、問題の焦点がずれる。
実際のところ、全体状況という背景や文脈があるときにだけ、「嘘」は成立する。「嘘」と覚しきものが「そこ」にある状況であるならば、必ず何か「嘘をかぶせる対象事象」がある。しかも、嘘かどうかを検証する必要が生じるとき、真偽解明フォースが目指すところは「対象事象に対する情報は嘘か真か」であって「情報の伝達者は嘘つきか正直者か」は二の次だ。
文脈も背景も切り離してしまって本来なら成立しない「嘘つき」を、幻術よろしく“「命題」に据えること”自体が既に矛盾している、と思うのだ。立てる式に矛盾があるなら答えも出ないのはフツー、じゃないのかな…?
人間は自分の目玉で自分を直接見ることはできない。でも自分の行動は自分でする。「嘘つきのパラドックス」は自分による直接行動ではなく、「自分ではない他者に、他者では確定し得ない自分領域を、確定しろとけしかける」。
エイプリルフールのネタが面白いのはりっぱに「前提・背景」があるからだ。だからこそ、ちゃんと「嘘」が成立して、皆をニヤリとさせる。
幸せな人生の旅を
子ども達、友、遠くにある人、この現実を生きる大切な人達。
良き旅路であることを
先を往く親族、家族、友人知人、鬼籍にありながら良くしてくれた方々。
誰も彼も、肉体を纏うときもそうでないときも、その旅路が最良のものであるように。どの事象経験からも、ギフトを見つけることができるように。感謝の想いが、その心の翼になってくれるように。自分以外の人達も自分自身も、等しく敬える心の開きが、いたわりと励ましの源泉であるように。
幸せであってほしいとねがう私の夢を、叶えてくれますように。
どうか、幸せに。
何気ないふり…は、得意かもしれない。
痛くても、悲しくても、寂しくても、或いは怒っていても、人間関係は進み変わる可能性を一瞬一瞬に内包していると考えるから、とりあえず保留しながら表現の是非と時期の適切を見る癖がついている。私はコミュニケーション能力は高くない、たぶん。
親愛感にしても同様なのだ。育った境遇の刷り込みや経験の記憶にまだバカみたいな刺があって、大好きになればなるほど遠慮が出ることに、中年になってから気づいた。「胸に痛い想い」をするかもしれない怖さを、越えて行けるならきっと最高の勇者だろう。
相手が迷惑に感じるのではないかと思う頭の奥で、生きて行くのが難しくなるほど痛みたくないと恐れ、「今はまだ涙の海で溺死するわけにはいかない」などと、最高の勇者になれない言い訳の理屈を組み立てる。
何気ないふりになりそうな表現まで出力を絞って、何かが壊れたりしないように。
文学などの物語や、映画やテレビのドラマといったものなら「ハッピーエンド」はある。「バッドエンド」もある。
物語のハッピーエンドが喜ばれるのは、カタルシスとセットになっているからだろう。気分良く物語への感情移入から現実感覚へ帰還できるし。多くのハッピーエンドは、人の心を元気にする力がある。
しかし、ハッピーエンドでも、昔の子供ゴコロに「めでたしめでたし」が何故めでたいのかわからない物語があった。シンデレラとか、白雪姫とか、「とにかくどっかの王子をつかまえたらオッケー!!」みたいな流れのものだ。疑問なのは、「その王子様って良い人なの?」とか、「全然知らない人とすぐ結婚しちゃうの?」とか、たくさんありすぎる「王子様と結婚してめでたしめでたし」な物語の、それが「幸せな結末」たる根拠の不明さだった。
『シンデレラ』は、ある小さな貴族の父親が、娘達の教育のために書いた物語だとか聞いた。日本の『源氏物語』の中にも、結婚によって磐石の後ろ楯を得るという部分がある。結婚をゴールと見なし、権勢強く富のある相手との結婚に、家の命運を賭けていたケースは世界各地に残る話だ。なので物語の設定にもしばしば使われる。映画「タイタニック」でも、ヒロインの初期状況は、母親の意向によって“お金持ちに売り飛ばす如き婚姻の約束”がある。「幸も不幸も金次第」という考えがそれらの背景にあるようだ。
逆に、映画「愛と青春の旅立ち」(…だったと思うんだけど)みたいに、結婚式場から恋人をさらって走るラストの“ハッピーエンド”もある。シンプルに「好きな人と一緒が幸せ」という流れだ。若く身軽で自分が抱えるものは自分自身のみなら、それに勝るものはないだろう。その後の幸福はそこから創ってゆくものだから、スタートでもある。
ハッピーエンドは、その先に続く「今」を創造する流れのスタートだ。
見つめられると、見つめ返す。どっちの目玉に先に穴があくか、瞬きもせず勝負だ。“それはにらみ合いだろ”、というツッコミが聞こえてきそうだ、うん。ほとほと、「ろまんちっく」とは縁遠い。
何日も前、文のなかに「見つめる」と書いた。自分と自分の状況を、何の感情もなくただ見つめた。取りこぼさぬように、見逃さぬように、ただ、ただ。
さて、同じように誰かに「見つめられ」たら、私はどう感じるだろう。…たぶん、あまり気にしない、かもしれない。何か言いたそうなら、「何か?」と訊ねるかもしれない。しっかりと「見つめる」のは、なかなかに集中力もエネルギーも使うから。
まあだがしかし。私は誰かに見つめられることなど、まず無い。却って、何の気なしにたまたま目が合った見知らぬ人々は皆、何かまずいものと目が合ったという風に慌てて目を逸らすか、回れ右で踵を返すかばかり………何故?
猫に好かれた嬉しい日も遠く、私を見て嬉しそうにするのは、人間を見ればおやつを貰いたがる近所の犬ぐらいだ。思いっきり尻尾を振りながら買い物の袋に期待しまくり。「おやつは無いよー」と言うと、ちゃんと去ってゆく。…おそろしい子……!