郡司

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1/8/2024, 1:10:56 PM

色とりどり。
赤・黒・白・黄。肌色の違い
黒・茶(トーンいろいろ)・緑(トーンいろいろ)・青(トーンいろいろ)。瞳の色いろいろ
黒・赤(トーンいろいろ)・茶(トーンいろいろ)・金・プラチナ・白は銀色の人もいる。髪の色いろいろ

白いから、黒いから、赤いから、黄色いから…
だから何だ。
環境への生物学的適応が現れるだけ
環境に沿った文化形成が現れるだけ
みんなただのいきもの

色自体に歪みは無い。みんなあざやかにきれいな色をしている。

1/7/2024, 12:19:53 PM

雪。
私は「雪女」だ。何の気なしに外に出ると雪が降る。終日晴れの予報でも雪が降る。ひとり雪まみれになって、帰ると晴れる。少し前も、私の居るところに「ミニ低気圧」が現れて、ホワイトアウトが一日続いた。冬じゃなくても、「ママ、傘を持って行ってね」などと子どもに言われる。今日は雨降らないってお天気お姉さんが言ってたよ、と返しても「それでも、ママが傘持たないでお買い物行くと雨が降るんだよ。傘持って行ってね」と来る。若い頃、私が自分の車を洗車すると、それを知った周りの者達がブーイングした。「お前が洗車した後は絶対に雨が降る。今日は自分も洗車したのに、なんて事をしてくれるんだ」と。
…それなら、みんなで雨でも雪でもくらおうじゃないか。白魔が来るわけじゃないから誰も死なないぜ。大丈夫だ問題ない。

白魔とは、ただのホワイトアウトではない。次元の違う恐ろしいものだ。白魔が来る予兆を感じる野生動物達は、みんな急いで安全確保に走る。私が白魔に巻かれたのは、ひとりで外で遊んでいた10歳の冬だった。

聞こえ始める音、急激な空気の凍て付き、山の木々が大きく揺さぶられて立てる轟音の近づいてくる緊迫感、何が来たか解る間も無く真横からブラストしてくる雪と氷の圧倒的な剛力。真っ白な目も開けにくい風速、自分の周囲全てで風と大気がゴオゴオと大音で鳴り、生きものの本能が危機を感じ恐怖が湧く。白魔に出会ったら、2~3分以内に対処し始めなければ命を落とすと言われている。これは本当にそうなのだ。

子供の私の直覚に、白魔が問うた気がした。「生きるかやめるか今決めろ。やめるならここに居れば良い。生きるならとっとと帰れ」と。
当時いろいろあって毎日悲しかった私は、数瞬考えてしまった。ここに居ようかな…と。しかし、本当に胸を痛める人が少しだけ居るから戻らねばならないと結論して、子供なりの土地勘を手繰り寄せながら祖父母の家の玄関の中へたどり着いた。しばしその場で息をつき、手足の感覚が戻って、家の中へ入った。今振り返るとギリギリだったんだなと思う。

空から降ってくる六花。一つひとつ同じものの無い精緻な美。脆く儚い芸術的造形は優しい顔をしている。一方で、動物の体温を瞬時に剥ぎ取ってしまう圧倒的な恐ろしさを顕しもする。それでいて、どうするか選択するわずかな隙間も内包している。
その美しさに喜び、その恐ろしさに留意し、齎される豊穣を享受する人間達は、各地で雪の女王を想像した。

それにしても、今年の雪は重い。全身筋肉痛だ。

1/6/2024, 3:12:58 PM

君と一緒に
歩いていきたい
まだ見ない生の果てまで
君と一緒に。

1/5/2024, 2:24:34 PM

冬晴れは寒さの強まる兆し…放射冷却で冷え込む。
昼間、太陽の光自体はあたたかさを注いでくれるけれど、夜の星は澄んで煌めき、月は冴え冴えとその輪郭をくっきりさせる。足下の雪はぎゅうぎゅうと鳴り、空気は容赦無く引き締まる…のは昔のことだ。
私の住む街の気候も昔とはずいぶん様変わりしてしまった。中途半端に暖かい冬が巡って来るようになり、最初のうちは「今年も暖冬」と言われた状況も「平年並み」と言い慣わされて久しい。暖かい冬が始まったのは私が中学生のときだったから、もう38年前だ。毎朝のものだったダイヤモンドダストやサンピラーは消えた。川沿いの木々が樹氷を纏うことも無くなり、スキー場の粉雪はエッジの引っかかるベタ雪になった。マイナス20度を下回るのが普通だったが、現在はひと冬に一度あるかないかだ。子供の手伝いに雪かきがうってつけだったのも、昔の雪は軽いパウダースノーだったから。今は大の男でも息切れするような重く湿った雪を「除雪」する。雪がべたつくようになって列車のトラブルも増えた。かまくらや雪だるまを作ることが夢のまた夢だったけど、今は簡単に作れる。そういえば、アラスカの平均気温が私の住む街とほぼ同じだと聞いて驚いた。やはりアラスカ鉄道もトラブルが増えて、運営コストは大変な状態らしい。ずいぶん前だが、NASAが地球の地軸変動を伝えていた。3度の傾き増と記憶している。現在、その原因を調べる活動も増えている。

あらゆるレベルで、育った記憶の冬とは違う冬の日々。同じ場所でのこれほどの変化は、冬晴れの日の気温差にも複雑な感慨をいだいてしまう。

1/4/2024, 4:40:12 PM

幸せとは。何に幸せを感じるかは人それぞれ…だが、「幸せ感」として感じる共通な基本があるのではないかと考えてみる。どんなとき、みんな幸せを感じるだろう…

人間にはいくつかの欲やねがいがあるという。諸説ある。
役に立ちたい、認められたい、愛したい、愛されたい、生きていたい。これは「肯定性」に関する心のねがいと言える。
眼耳鼻舌身で五根とかもある。解釈はいくつかあるようだが、心に関するものと身体に関するものとがある。肉体を持つ以上、当然のものとして食欲、睡眠欲。物理と精神の間にありそうな色欲と財欲と名誉欲。食欲と睡眠欲は生きものとして生存するためのものであり、なんなら色欲だって生きものが持ち合わせている必須性を含んでいる。財欲と名誉欲は両方とも、その底流に本当のねがいを隠している。

食べて美味しいのは幸せだが食べ過ぎれば苦しいし、質の良い眠りは元気になるけど眠り過ぎると疲れる。性の表現は心と意図の方向が違えば幸福から地獄まで顕す強力な諸刃の剣だ。財は生活の安心になるが財があり過ぎればイヤな経験をしやすいし、名誉は自己肯定を支えてくれるが名誉に囚われれば自由が遠ざかる。つまるところ、欲に執せず自分にちょうど良いバランス点に居ることが「この世にある幸せ」に触れるありようなのだろう。物理的身体を持つ人間であるうちは、欲がまったく無いという状態は、無力ですらある。受け取れないなら喜べない。望むものが無いなら前に進むこともできない。「欲を滅せば」悟りに至る? 何のために悟るのか?
釈迦牟尼は不幸なんかじゃなかったはずだ。

むぅん…もっと単純に考えてみよう。
私は自分自身でいたい。できるだけ安心していたい。衣食住に足りていたい。愛する人、たいせつな人達には幸せでいてほしい。
私の場合、「ありがとう」が増えるほど幸せ感が大きくなる。感謝の想いに不幸の感情は近寄れない。自分の半世紀を振り返ってみても、感謝は不幸感を力強く吹っ飛ばすという経験的実感がある。

幸せを感じたいとき、感謝の想いを致せば、「不幸感」を消し飛ばすドラゴンブレスになる。ちょうど今年は辰年だ。年中厄落としができそうだ。

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