幸せとは。何に幸せを感じるかは人それぞれ…だが、「幸せ感」として感じる共通な基本があるのではないかと考えてみる。どんなとき、みんな幸せを感じるだろう…
人間にはいくつかの欲やねがいがあるという。諸説ある。
役に立ちたい、認められたい、愛したい、愛されたい、生きていたい。これは「肯定性」に関する心のねがいと言える。
眼耳鼻舌身で五根とかもある。解釈はいくつかあるようだが、心に関するものと身体に関するものとがある。肉体を持つ以上、当然のものとして食欲、睡眠欲。物理と精神の間にありそうな色欲と財欲と名誉欲。食欲と睡眠欲は生きものとして生存するためのものであり、なんなら色欲だって生きものが持ち合わせている必須性を含んでいる。財欲と名誉欲は両方とも、その底流に本当のねがいを隠している。
食べて美味しいのは幸せだが食べ過ぎれば苦しいし、質の良い眠りは元気になるけど眠り過ぎると疲れる。性の表現は心と意図の方向が違えば幸福から地獄まで顕す強力な諸刃の剣だ。財は生活の安心になるが財があり過ぎればイヤな経験をしやすいし、名誉は自己肯定を支えてくれるが名誉に囚われれば自由が遠ざかる。つまるところ、欲に執せず自分にちょうど良いバランス点に居ることが「この世にある幸せ」に触れるありようなのだろう。物理的身体を持つ人間であるうちは、欲がまったく無いという状態は、無力ですらある。受け取れないなら喜べない。望むものが無いなら前に進むこともできない。「欲を滅せば」悟りに至る? 何のために悟るのか?
釈迦牟尼は不幸なんかじゃなかったはずだ。
むぅん…もっと単純に考えてみよう。
私は自分自身でいたい。できるだけ安心していたい。衣食住に足りていたい。愛する人、たいせつな人達には幸せでいてほしい。
私の場合、「ありがとう」が増えるほど幸せ感が大きくなる。感謝の想いに不幸の感情は近寄れない。自分の半世紀を振り返ってみても、感謝は不幸感を力強く吹っ飛ばすという経験的実感がある。
幸せを感じたいとき、感謝の想いを致せば、「不幸感」を消し飛ばすドラゴンブレスになる。ちょうど今年は辰年だ。年中厄落としができそうだ。
1/4/2024, 4:40:12 PM