何でもないふり、を、しなくちゃならない気がしてしまうときは少なくない。大抵の場合は誰かを心配させないため、とか、不安がらせちゃいけないから、とかの理由だ。他にも、優しい誰かが自分自身を責めたりしないようにとか、ちゃんと自分で始末をつけなくちゃとか、いろいろある。
今は何でもないふりしておかないと、心がいじけて折れてしまいそうだから、必死で踏ん張っちゃうときもある。
歳をとるほど、素直に泣いたり、わめいたり、ごねたりするのは難しくなる。ひとりで静かにベソをかけば、子どもの頃の空気の中に入ってしまうから、そんなところを自分の子ども達に見られたら、子ども達は不安な気持ちになりそうだし、悪くすれば無理させるかもしれない。子どもはすくすく育つのが大事な仕事だ。まだまだ小さな人に、自分で立つべきおとなの面倒のためにエネルギーを割かせるなんてダメだ……と、考えるから、やっぱり私は「何でもないふり」をする。それが正解かどうかはわからないけれど。
それに、もしかしたら「ふり」は「ふり」じゃなくなるかもしれない。自分をだますのではなく、ちゃんと自分のための「着地点」を見つけられれば、きっと本当に「何でもなくなる」。それを目指して、今は何でもないふりをしてしのぐ。
よく言われるワードだ。「夢と現実」
「夢なんか見ちゃって」とか「現実を見ろよ」とか。
そも、何を「夢」と言っているんだろう。「夢」と「埒もない妄想」とが、ごちゃ混ぜに扱われている気がするんだが。この二つは全然違うものだと思うのだが、区別しないのか?
そして、「現実」をどう捉えているんだろう。「自分の現実が嫌い」な傾向のあるとき、人の「夢見る気持ち」をこき下ろしていないか? 何より、ひとの現実にイチャモンつけてる場合か? いちばん重要なのは自分自身の現実じゃないのか?
…というところを踏まえた上で、私の考える「夢と現実」とは、「夢は望む現実のすがたを指さすもの。現実は過去の自分自身が考えたことと選択の結果。今顕れている現実を丁寧に検証して、“途中経過である今”、どうするかを諮るための、正確な通過指標として、望む現実をめざす」ものだ。
もちろん、のっぴきならない大変な現実のただなかにあるときや、深いレベルにある要素のために「どうしてこうなった」と問わずにいられない苦しみの中にあるようなとき、そんなことを考える余裕など無い。「現実」なんて大っ嫌いになったり、「夢」なんて見てる人を腹立たしく感じたりする。
でも、それでも。
小さな光の点でも見えるなら、
消えそうながらひとすじの光を感じないわけでもないなら、
なりふり構わずそれを目指してみる。触れそうなら触ってみる。
ときには、そうすることが「精いっぱいできることのすべて」なのが「現実」であることもある。そんなときは「夢」は二の次、後回しだ。ひたひたと「現実」の状況を進み、クリアするしかない。
“跳べないハードルは置かれない”とも聞く。本当かどうかわからないなと思いながらでも、どんなに小さくても「励まし」や「杖」のようにしばしば思い起こしながら歩む「現実」。
夢を想えることは幸せな力だ。それをできる状況にある人には夢を目指してゆく義務がある。いつか、苦しい「現実」にある人がそこを抜けて、夢を見ることができるようになったとき、多様な「夢」の間口が「現実」のなかに展開していれば、その人も新しく「夢」を目的地にできるかもしれないからだ。
「夢と現実」は、相反するものではなく、生きることを歩むすべての人の切実なねがいを展開する「フィールド」だと、私は思う。
「さよなら」は、基本的に言わない。
毎日の終わりの挨拶なら「お疲れ様でした、また明日」だし、遠くに旅立つ人になら「体だいじに、元気でね」だし、永の別れというときでも「本当にありがとう、どうか最良の旅路を」だ。
「さよなら」は、なんだか寂しいのだ。縁もそこで終わるようで。だから人との別れのときに「さよなら」なんか言わない。…相手が「さよなら」を望むときは仕方ないけどね。
そういえば、そんな歌あるね。
愛情はいろいろあるよね。家族の、友達の、伴侶や恋人、一緒に暮らしてる動物とか、だいじに育てている作物や花、んもう、リストを作ろうとすればありとあらゆる物事に。
「愛し」と書いて
「あいし」
「いとし」
「かなし」
…と読んだりする。
人によって愛情の表現形はさまざまだ。自分の表し方と違うと、わかりにくくなってしまうことも、よくあるようだ。思えば、これほど「テンプレートがアテにならない」のに「相手の愛情を自分の定型メガネで当て嵌めて」しまうものは他に無いかもしれない。ついつい、なんだよね…
愛情には温度がある。
そして多分、私達が観測できる範疇の現実では、それが足りているところと、それを必要としているところの二種類があるだけなのだ。愛し、愛され、受け取り、受け取られることが比較的できるところと、愛が光を当ててくれるのを求めて叫びが発せられているところとが。
いずれの場所でも、わかりやすく温かい愛情の表現は、「いとし」「かなし」の両方を明るく充たす糸口になる可能性を持っている。
ときに辛抱強さが必要だが、それこそは「愛情」の真骨頂だ、と、思う。
落ちていく
怒りの塊が
憎悪の鎧が
剥げ落ちて
落ちていく
落ちていく
悲しみの氷が
孤独の冷水が
流れ去って
落ちていく
落ちていく
目を塞ぐ鱗が
破裂を待つ殺意が
崩れ崩れて
落ちていく
落ちていく
ねがいの涙が
理解の驚きで
凍った心に
落ちていく
落ちてくる
見ずにいた光が
あたたかい慈雨が
太陽が出る
曇った心に
晴れ間から光が
落ちてくる
愛を抱いた星の光が
この目に
この胸に
これから
何処へ行こうか