郡司

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よく言われるワードだ。「夢と現実」
「夢なんか見ちゃって」とか「現実を見ろよ」とか。

そも、何を「夢」と言っているんだろう。「夢」と「埒もない妄想」とが、ごちゃ混ぜに扱われている気がするんだが。この二つは全然違うものだと思うのだが、区別しないのか?

そして、「現実」をどう捉えているんだろう。「自分の現実が嫌い」な傾向のあるとき、人の「夢見る気持ち」をこき下ろしていないか? 何より、ひとの現実にイチャモンつけてる場合か? いちばん重要なのは自分自身の現実じゃないのか?

…というところを踏まえた上で、私の考える「夢と現実」とは、「夢は望む現実のすがたを指さすもの。現実は過去の自分自身が考えたことと選択の結果。今顕れている現実を丁寧に検証して、“途中経過である今”、どうするかを諮るための、正確な通過指標として、望む現実をめざす」ものだ。

もちろん、のっぴきならない大変な現実のただなかにあるときや、深いレベルにある要素のために「どうしてこうなった」と問わずにいられない苦しみの中にあるようなとき、そんなことを考える余裕など無い。「現実」なんて大っ嫌いになったり、「夢」なんて見てる人を腹立たしく感じたりする。

でも、それでも。
小さな光の点でも見えるなら、
消えそうながらひとすじの光を感じないわけでもないなら、
なりふり構わずそれを目指してみる。触れそうなら触ってみる。
ときには、そうすることが「精いっぱいできることのすべて」なのが「現実」であることもある。そんなときは「夢」は二の次、後回しだ。ひたひたと「現実」の状況を進み、クリアするしかない。

“跳べないハードルは置かれない”とも聞く。本当かどうかわからないなと思いながらでも、どんなに小さくても「励まし」や「杖」のようにしばしば思い起こしながら歩む「現実」。

夢を想えることは幸せな力だ。それをできる状況にある人には夢を目指してゆく義務がある。いつか、苦しい「現実」にある人がそこを抜けて、夢を見ることができるようになったとき、多様な「夢」の間口が「現実」のなかに展開していれば、その人も新しく「夢」を目的地にできるかもしれないからだ。

「夢と現実」は、相反するものではなく、生きることを歩むすべての人の切実なねがいを展開する「フィールド」だと、私は思う。

12/4/2023, 11:31:26 AM