ススキ、と聞くと「昭和枯れすすき」と思い浮かぶ自分にトシを感じる。昔のテレビでけっこう聞こえてきてた。
あとは、月とススキ。お供えの団子。
子供時代、近い場所に野原があった頃は、ススキを一本とってはハタハタさせて遊んだりもした。今その場所はすべて市営住宅になって公園整備され、桜や銀杏、松のたぐいが植えられて、ススキはいない。ススキもまた、そこら辺で遊ぶ子供の友だったのだ。数年前、花屋でススキが売られていることに驚いた記憶がある。多分、「月見のしつらえ」や、生け花に需要があるからだろう。間違いなく「季節を知らせる」存在感のある植物だ。
さて、冒頭の「昭和枯れすすき」だが、まあアレな内容の歌であるんだが、りっぱにヒット曲だ。私が子供のころ、その歌にどういう印象を持ってどう反応したか思い出してみる。
貧しさに負ける…ってどういうことだろう。
世間に負ける、ってどういうことなんだろう。
この街も逐われた、「も」ってどういうことかな…
いっそきれいに死のうかって、辛いってこと?
が、だいたい中心だった。
子供心に思ったのは、「そうか、貧しさに負けちゃダメなんだな」という感覚だったと思う。この歌はとても不幸せそうだったからだ。そして、「きれいに死んじゃダメなんだな」とも思った。汚く死ねば良いという意味ではない。「きれいに」などと言う表現が、なんだかひっかかったのだ。まるで、生きた痕跡まるごと消し去るつもりみたいな。
「ふたりは枯れすすき」とむすぶ1番。独りじゃないらしいが、ふたり居てふたりともそう考えるなんて、もったいない感じ…とも思った。まあ、時代性というやつかもしれない。
現在いいトシになって、そこそこ人生の季節を過ごし、ある意味ハラも据わってきた頭でこの歌を見返すと、「貧しさから脱出、或いは少ない手持ちでもすり抜けられる方法を探さないと。世間って言うけど、世間なんて核心の無いあやふやなものを気にし過ぎちゃダメだ。逐われない場所を見つけて、せめて自分自身だけでも自分の生きることを肯定しないとね。誰が救ってくれる? 誰が代わりに生きられる?」などと思う。…ああ、自分は歳とったんだなと思う。
すすきは、ふわふわとしてくる前はつやつやしている。茎もしっかりしていて、ちょっとの力では引き切ることなんか出来ないほど強靱だ。それは枯れかけても大して変わらない。他の植物と同じく、サイクルの終わりに潔いけれど、独特の頼もしさを醸す草なのだ。
意味がないこと…ってあるのか?
昔、ある映画を見たとき、「キーッ!!私の時間を返せ」などと感じて怒り心頭に発することがあった。タイトルは伏せるが、当時映画評論家だったおすぎ氏も同じ言葉を吐き出していたので、テレビを見ながら「うんうん、そうねアレ酷いわ」と思った。
しかし、しかしなのだ。
私はその映画を見たことで、「自分の二時間を無駄にした」と怒ったのだが、同時に「生きる二時間ってものすごく貴重で大切なものなんだな」と実感したのだ。これは理屈抜きで、直覚的な実感だった。
そして、その感覚は、その映画を見なければ気づくこともなかった気がする。
今でもあの映画を見ようとはまったく思わない。
でも、「生きてる時間は自分にとって貴重なもの」という、滅多に経験できない感覚を得ることができたことには、ものすごく意味があったと思う。
「そよ吹く風が頰を撫でてゆくことにすら意味があるのに、心を貫くような哀しみに意味が無いなどということがあろうか。そんなことは絶対にない」と、古き時代の人の言う。心に、新しい発見に、自分自身を育む何かを見つけることができるものには、確かに「出会う」だけの意味があるのだ。
意味するものが、それによって自分の資質を伸ばすものが、何も見つからないでうろうろするときの私は、その時点ではまだ、それに関して「未熟者」なんだろう。
今のところ、意味を探しても見つからないまま諦めて「敗北を喫したまま」のものは、幸いにして無い。
しぶとく辛抱強く、意味を見つける。無理矢理こじつけようとしても、ほかならぬ自分を誤魔化すことはできない。
そのこと自体にも、確かな意味がある、と思う。
あなたとわたし
わたしとあなた
あなたはわたし
わたしはあなた
あなたもなくわたしもなく
あなたはありわたしもある
えのぐをまぜたようにまったくひとつ
それぞれの個はまったく完全
おおきな創造のちからの源流
時間も存在しない
空間も存在しない
命の 存在の 動きがすべて
ひとりこどくは幻想
ひろくほどけて消える限界
ながれきたるなら逆もまた可なり
「高く上昇」して至聖
「低く下降」すれば虚し哀し
手の届く ここに
至難の概念を要さず
天の梯子も要さず
そして
あなたはあなたの
わたしはわたしの
尊きを識る
あなたはわたし
わたしはあなた
あなたとわたし
向き合いて嬉しき
柔らかい雨には久しく出会ってない。それに、今は冬へ向かう季節で、「一雨ごとに寒くなる」冷たい雨ばかりだ。
でも「柔らかい雨」にも覚えがないでもない。暖かい季節の軽い雨模様のとき。
雨、といえば作物には日照とともに必須の日本。昔、農家をしていた知人があったんだが、雨が少なくて難儀していた年があった。畑の土が乾燥してひび割れ、家の水道からホースで長時間かけて広い畑に水を撒いてしのいでいた。ある日、やっと薄い雨雲が出て、「お湿り程度」の雨が降った。雨はすぐにやんでしまったので、知人はまた水を撒きに畑に行った。すると、わずかな雨しか降らなかったのに、畑の土からひび割れが消え、しっかりと水分を含んだ畑になっていた。
「私が人間の力で何とかしようと思って、一生懸命一日がかりで水を撒いても全然だめだったのに、ほんのちょっとの雨でこんなになるのよ。お天道様って本当にすごいわ…」と、しみじみ、なんだか厳粛な感じで言っていたのが印象深い。
私はこの知人の畑や水田の場所が好きだった。空は遮るもののひとつも無く、大きく深く、美しかった。厚い雲の隙間から太陽の光が差し込むとき、それは幾つもの「天使の階段」よろしく荘厳に光を降らせていた。育ちゆく稲穂が風の姿を教えてくれるさまは水の波打ちのようで、長いこと見ていても飽きなかった。
残念ながら知人は伴侶を亡くしてから身体を壊してしまい、農家をやめてしまったのだが、作物を育てることが好きだったから、何がしか少しずつ作っているらしい。
私の印象の中の雨は、太陽の光と稲妻と風、そして雨が生かすものといつもセットになっている。
天から降る柔らかい雨は、地の生命の求めに応えるような優しさと、絶大な力の顕れのような気がする。
うん、感謝しながらごはん食べよう。
哀愁、もの悲しさ
正直言って、捕まりたくない気分だ。
もの悲しい気持ちはどんなときに感じるか?
自分がひとりぼっちなんじゃないかと考えてしまうとき。こういう状態のときはついでに寒い。
自分なりに頑張っているけど報われないとき。無力感ももれなく付いてくる。
たくさんのかなしみが、溢れて満ちた場所に出くわしたとき。
残念感なんて生きてりゃいつものことだ。
寂しいときはまず何か食べてみる。空腹のときと満腹のときのメンタリティの落差に刮目せよ。
頑張る方向を間違ってないか吟味しろ。
自分一人じゃどうしようもないかなしみに、どんなに小さくてもいいからいつか希望を投げ込むことを想え。それは無駄死にすることはない。
絶望感にはまっても絶望しきるな。やれることのすべてをやり尽くしたか自分に問え。
それでも絶望の闇の底に沈んだら、そんときゃその底を、ぶち破れ。
なんにしたって、やってみなけりゃ結果なんざわからん。やる前から可能性を捨てるな。
もの悲しさは寒い。
だから自分の中の熱を引っ張り出してみる。
哀愁を知ってはいるけど、友達にはなりたくない。