ココロオドル
ココロオドル、この瞬間。
ミュージック…スタート!
束の間の休息
朝の散歩から帰って郵便受けを開けると、ダイレクトメールの中に混じって一枚の葉書を見つけた。
差し出し人は見なくたって分かる。
こんなインターネットが普及した時代で、わざわざ手書きで送ってくる人なんて限られてるもの。
相も変わらずこのスタイルを貫いていることに、吐息が漏れた。
あの人が旅立ってからどれくらい経っただろう。
家に入ると、手を洗い、キッチンへ向かう。
水を汲んで、薬を飲んだ。帰宅後のいつものルーティン。もうすっかり習慣になっている。
戸棚から紅茶を入れるためのセットを取り出した。
ティーカップは紅茶が趣味な私にあの人が贈ってくれたものだ。
緑色の線がさりげなく縁取られた先に四つ葉のマークが可愛らしいカップ。
あの人がこんな可愛らしいカップを選んでいるのを想像すると、あまりに似合わなくて笑ってしまう。
ほどよい温度で沸かしたお湯をポットに注ぎ、良い感じになるまでしばらく蒸らす。
そのうちにお茶請けのお菓子を用意だ。
今朝焼いたスコーンとジャムをお皿へ、ポットとカップも一緒お盆に乗せた。
今日はお天気がいいから、庭へ出ようかしら。
ほっとひと息ついて、紅茶を注ぎ入れた。
いい香り。私は味も好きだけれど、紅茶の香りが大好き。
ゆっくりと息を吸うと身体中に暖かみが巡ってゆく。
この瞬間が至福のときだ。
充分に香りを楽しんだ後、ひと口飲んだ。
今日も上手く淹れられた気がする。
テーブルの上に置いた葉書を手に取った。
丁寧とは言えない字で文字が綴られているのをひと文字ひと文字、丁寧に読んでいく。
裏面にはどこかの国だか、地域の風景が写されてるポストカードで、あの人が今ここにいるんだと分かった。
昔から好奇心が旺盛で、興味を持ったらなんでも、どこへでも行ってしまう。自分の好きなことのために、まっすぐに進んで行ける人。
旅人の居場所は分からないから、彼が会いにくるのをいつも待っているだけだったけれど、気まぐれな彼の話しを聞くのが私の楽しみで、いつの間にか私は心惹かれていった。
ふらふらと世界を歩きまわる彼だったから、特別な人はいなかった。
しばられるのが窮屈に感じると言っていて、それが彼らしくて笑ってしまったのをよく覚えている。
特別になれなくても、彼と話せるだけで私のこころは満たさせていたから、充分だった。
そんな彼だから、私たちはお互いの連絡先も知らない。自分から話すわけでもなく、私もあえて聞かなかった。
自由を好む彼が、一度だけ私の住所を聞いてきたことがあった。
それまでは相手に対しても踏み込まなかったのに。
何の気まぐれかだったのか。
私の住所を聞いた次の日、彼はまたふらっと旅に出た。
どこに行ってくるなんて言わなかったけれど、風の知らせとでも言うのかしら、行ったのだろうと不思議とそう感じた。
それからだ、葉書が届くようになったのは。
知らない地名の住所から届く手紙。短い文章と、その土地の美しい景色を一緒に運んできた。
名前は書かれていなかったけれど、すぐに彼だと分かった。
私の住所が変わったらどうするのだろうといつも思う。
でも、私の方がここを離れられないのかもしれない。
どこにいるのか分からない彼を想いながら、不定期に届くその葉書を、私はとても楽しみに待っている。
葉書を読み終えると、庭を眺めながらティータイムを楽しんだ。
その後も、読み終えた葉書を手にとって何度も見てしまう。
『会いたいな…』
つい、独り言のように葉書に呟いた。
親しい関係でもないのに、欲張りかしら…。
ガタン。
物音に顔をあげると、そこには私が待ち望んでいた人が立っていた。
『やあ、久しぶりだね』
人懐っこい笑顔が全然変わっていない。
『え、どうして…』
驚いて、思わず椅子から立つ。
『ついさっき戻ってきたんだ。久しぶりに会いたいと思ってね』
『そう……上がって!お茶でも飲んでいかない?』
私は慌てて玄関先へ回って彼を迎え入れた。
『座ってて、今、お茶を…』
『そんなに慌てなくても大丈夫だよ。僕がやるから…』
『私がやりたいの、貴方は座ってて!』
飲んでいたポットを手に取り、キッチンへ向かった。
新しい紅茶と、四葉のカップを用意した。
湯を沸かしている間、窓の方を見ると彼がゆったりと何かを読んでいた。
その姿にハッとして私は頭を押さえる。
私ったら、葉書を出しっぱなしにして。
恥ずかしさが込み上げてくる。
でも、なにか暖かいものがこころに広がった。
『ありがとう』
庭に戻ると、彼は紅茶をひと口飲んだ。
『そうだこれ、ちゃんと届いてたんだ』
『うん、いつも読んでるよ』
良かった、と彼は頬を緩めてカップを口に運んだ。
『旅人さん、今度はどこを旅してきたの?』
努めて冷静に私がそう訊ねると、彼はにこにこしながら話し出す。
私はそれを静かに聞く。
きっとまた、どこかへ行ってしまうんでしょう。
それまで、束の間の休息をここで。
力を込めて
三連休の中日、家に引きこもって過ごす予定だった僕は、なぜか運動場に立っていた。
運動の秋と題して、僕の住む町では毎年大々的にスポーツ大会が行われている。
紅白青黄に分かれて行うチーム戦で、町民はもちろん、基本誰でも参加ができるから、わざわざ遠くの町からやってくる人もいるらしい。
遊びみたいな催しだけど、さながら運動会のようで、子どもから大人、おじいちゃんおばあちゃんの世代まで、楽しめる会だ。
その大会に僕も参加させられた。
運動はもちろん、人の集まりが苦手な僕は全く興味がなかったのに、参加のため遊びに来ていた従姉妹家族の小さな従姉妹に腕を引かれてきたわけだ。
本当は行きたくなかったのに、僕が玄関前でぐずっていたら母に白い目で見られた。
どうやらこの歳でぐずるのは可愛いものではないらしい。
子どものぐずりは許されるのに。
僕からしたら、ちびっ子のぐずりの方が嫌なのに。
なにこれ、理不尽。
受付を済ませると、僕たちは白チームに分けられ、チームカラーのハチマキを身につける。
参加者は事前エントリーを出しておかないといけないはずだ。
なのに僕の名前もしっかり名簿に載っていて、完全に仕組まれていたことをさっき知った。全く、恐ろしい家族だ。
ハチマキは分かればどこに着けてもいい。張り切っている人だと思われるのは癪だったので頭には巻かず、タスキがけにしておいた。
晴天の下、地味にちゃんとした開会式が終わると、競技がスタートする。
人が多いから、僕の出番は少ないけれど、必ずひとり一回は何かに出場できるようになっていた。
『いっけー!』
『がんばれー!』
プログラムが進むこどに盛り上がっていく会場を僕は他人事のように眺めていた。
あんなに本気になっても疲れるだけじゃんか。
盛り上がる雰囲気でこういう冷めた態度をとるのが僕の良くないところだ。
でも、もともと参加するつもりなんてなかったし。
『みてみてお従兄ちゃん!白組かった!』
隣にいた従姉妹がぴょんぴょん跳ねて僕の腕を叩いた。
そういえば、伯父さんたちの姿が見えない。
スポーツ大会は大人もしっかり楽しんでいる。むしろ、彼らの方が騒いでいるほどだ。
なるほど、僕は世話係で借り出されたわけか。
前の競技の熱気が残るなか、僕が参加する徒競走が始まった。
よりによって走る系の競技とかついてない。
『絶対勝つのよ!』
伯母さんの熱いエールが僕をさらに憂鬱にさせる。
走るの得意じゃないんだって。
たくさんの人が見守る中、僕の出番が来る。
他チームの人。数名と僕は一緒に走る。みな年齢はバラバラだ。
『よーいっ!』
パンッと乾いた音とともに一斉にスタートした。
僕は少し出遅れて、先をいく背中を追いかける。走るのなんて久しぶりすぎて体の動きがぎこちない。
僕の横を軽快な足取りで追い越していく人たち。
そんなに長い距離じゃなかったのに、ゴールしたときはもう息が上がっていた。
自分の体力の無さを嫌でも実感させられる。
『どんまい、どんまい!よく走った!』
出番を終えて、場外にはけていくとき、白チームの知らない人たちに声をかけられて息が止まった。
惨めなだらしない自分を大勢の人に見られたのだ。
彼らはよかれと思って言ったと思うけど、僕はそれが恥ずかしくて急いでその場から逃げた。
ああ、だから嫌だったのに。
戻る途中、一際大きな歓声が湧く。
若い男の子が他を圧倒して、一位でゴールしたのだ。
僕と同い年くらいの人。
運動ができる人って何であんなにかっこよく見えるんだろう。
爽やかな好青年、かたや運動音痴で根暗な僕。
今日はこんなに天気がいいのに、僕の心はどんどん曇っていった。
『あ、お従兄ちゃん!かえってきたー!』
うさぎみたいに跳ねる従姉妹と伯父さんたちが僕を迎えた。
動き回って額に汗を浮かべている。ちびっ子はいつも元気だな。
『おつかれさまぁ』
『お従兄ちゃんすっごくはやかったね!かっこよかった!』
『どこがだよ。僕、ビリだよ?』
この子は誰かと勘違いでもしてるのか。
『えー!だって、いっぱい、いっぱい走ってたもん!かっこいいよ!ねぇ、ママ?』
『そうだね、お従兄ちゃん一生懸命走ってたもんね』
伯母さんの言葉に、従姉妹は満足気にまたぴょんぴょん跳ねた。
一生懸命やっても、一番じゃなきゃ意味がないじゃないか。
全く、ちびっ子の考えることは分からない。
不貞腐れて荒む心に、ほんのりと染みた言葉がくすぐったかった。
競技後ごとに掲示されていた得点板は、終盤になって改めて張り出された。
現在、一位は紅チーム。僅差で白、青、黄チームと続く。
まだまだどのチームにも逆転の可能性が残っている。
『続いては、チーム対抗大綱引きです!みなさん!チームで力を合わせてがんばりましょう!』
アナウンスの掛け声に、参加者が湧く。
スポーツ大会の目玉でもある綱引き。第一回から続く伝統競技みたいだそうで、みな気合の入り方に力がこもる。
幾度の戦いをしてきた綱には、その戦の戦傷が残されていた。近年傷みが激しくなってきたため、取り替えが検討されているらしい。
全2回のトーナメント戦で行われる綱引き。
初戦の相手は青チーム。まあここで負ければもう終了だから、初戦だし終戦かもしれないけど。
『白チーム!絶対勝つぞー!』
『『おー!!』』
体躯のいい男性が先陣を切る。
伝統競技だけあってか、みんなの目がいつになく真剣に見える。
勢いよく拳を突き上げる中で、僕は気後れしてちょっと引いていた。
…そんなに張り切って、馬鹿みたいだ。
僕たちは後ろの方の綱を持って構える。
『よーいっ!』
ピストルの合図で一斉に引き合う。
ずっしりと重たい綱がものすごい力で引っ張られた。
なんだこれ、なんだこれ。
思わず足を踏ん張って腰を落とした。
『オーエス!オーエス!』
掛け声に合わせて綱をひく。
知り合いでもない人たちがピッタリと息を合わせられているのが不思議だ。
動きがなかった戦いは、白チームの力強い引きで勝ちを引き寄せた。
勝利の雄叫びが耳をつんざく。
心臓が妙に熱くなっていた。
決勝の相手は現在一位の紅チームだ。
今年はどの競技でも紅は強い。
『よし、みんな!このまま勝つぞ!』
勝利でまたチームが盛り上がる。
がんばりましょうね!、とまた知らない人に声をかけられた。
みんな、なんでそんなに張り切れるんだろう。
額に汗かく人たちを僕は見ていた。
相手は強敵だ。負けるかもしれないのにがんばったって。疲れるだけじゃん。
『引けぇぇぇぇ』
決戦の合図が鳴ると同時に力強い感覚が綱から伝わってきた。
先程より前に引っ張られる。持っていかれそうになる体を腰を落として備えた。
紅チームが優勢そうだ。
『オーエス!オーエス!』
負けずとこちらも綱を引く。
『お…えす…』
息を止めて踏ん張りながら、絞りだすように声を出す。
気を抜いたら持っていかれる引きだ。
『みんな!諦めるな!がんばれ!』
前の方から誰かの声が聞こえた。
いや、僕もうそろそろ限界。
先程の戦いでほとんど握力を使い果たしていた。
もう痺れて痛い。
たかが町の催しだろ。なんでみんなこんなに本気なんだ。
せっかくの休みの日に、なぜ僕は綱を引いてるんだ?
空を見上げて喘いだ。
がんばったって負けるかもしれないじゃないか。
本気になればなるほど、負けたときの悔しさが苦しくなるだけ。
あんな惨めな思いはもうしたくないんだ。
『おーえすー!』
隣で綱を引く従姉妹。
顔が真っ赤な大人に混じって、懸命に綱を掴んでいた。
勝ちたいと、その姿から言われているように感じた。
“一生懸命走ってたもん!かっこいよ!”
にこにこ笑っていた従姉妹の言葉が脳をよぎる。
一生懸命はかっこいいか?
一生懸命やって僕はいつも負ける。カッコ悪いやつなんだ。
それでも、今一生懸命引いてるチームの人たちは、ちっともカッコ悪くなんてなかった。
胸が熱くなる。
遊びなのに。意味ないのに。
弱い自分が言い訳ばかり言うのに、僕はまだ綱を引く。
『うぉぉぉぉぉ!』
晴天の下、僕は雄叫びをあげながら最後の力を込めて空を仰いだ。
過ぎた日を想う
何気ない日々の中、いつも心の奥にしまっている出来事を思い出す。
人生のどん底、一番苦しい時期の記憶だ。
随分と時間が経った今でも、忘れられないし、忘れることなんてできないくらい、心に深く刻まれた過去。
でも、辛い過去の自分を想うと、今は不思議と微笑ましい気持ちになるんだ。
毎日しにたがって、泣いていた少女。
生きることを考えるのが、もうどれくらい苦しかったか。
記憶の淵で泣いていた少女を優しく抱きしめてあげたい。
たくさん苦しんで、悩んで、泣いて、しにたくて。
それでも生きててくれてありがとう。
生き抜いてくれて、ありがとう。
傷はまだ癒やされていないけれど、時間が心を癒やしてくれるから。
すべて、愛しいと思える日がきっと来るから。
今を見つめながら、過ぎた日を想うよ。
星座
私は空を見上げるのが好きだ。
お天気の良い日、綺麗なグラデーションがかる空に浮かぶ雲。
夕暮れ時の、夜が迫ってきている暗がりに光るオレンジ。
真夜中の、月や星々が輝く夜空。
空が表情変えていくのを、ただぼーっと眺めているだけ。
中でも夜空が好き。
真っ暗な空に小さく輝く星たちがたくさん散らばった宝石の海みたいで美しい。
それに、暗闇のだからこそ、小さな光も見つけることができるから。
夜空に浮かぶ星に、学校で習った夏の大三角形やオリオン座などの星座を見つけたとき、なんだかワクワクした気持ちになったのを覚えている。
知識として知っているものを自分の目で見たことが、その事が本当に“ある”ものとして理解できることがそうさせたのかもしれない。
知識と体験の一致、とでもいうのかな。
肉眼では見つけることができる星は限られてるけれど、本当はもっと、もっとたくさんの星がある。
しかも、私が見ている星の光は、もう何光年も前のもので、長い時間をかけてやっと届いた光を見ているらしい。
時が経っても、光は誰かの元に届くのだと思うと、目がじんわりと熱くなる。
星や星座は、旅人たちの道標にも使われていたと、理科を教えてくれた先生が話していた。
『迷ったら星を見よ。どちらの方角へ進めばいいか、星が教えてくれる。』
今日も夜空を見上げて、いろんなことを考えていた。
浮かんでは消えてゆく取り留めのないことを、静かな空に思う。
最近知ったのだけど、星座には月星座と太陽星座なるものがあるらしい。
自分が生まれたときに月や太陽がどの位置にあったかという星座で、これを組み合わせて、自分の内面を知る手段として使われているのだそうだ。
これが意外としっくりくるものがあって。
目に見えない力は、きっとあるんだって私は思う。
星座も人が見出したものであって、ただの星の連なりかもしれない。
人が勝手に意味づけしたものかもしれないけれど、この世界には不思議なちからが働いている!
そう思えば、随分素敵だと思うから、私はそう思いたい。
ここにも小さな星がある。
周りの光に圧倒され、自らの光を信じられなくなった星。
でもそれは輝くことを知らないだけ。
自分の中に、もう光はある。
いつかきっと、
光る星になって誰かの元に届き
迷う旅人の道標になっていくんだ。