あの遠い夏の日。
貴方は私を置いていってしまった。白い無地の半袖Tシャツと一緒に。
貴方は海辺で私に言った。「俺ちょっと泳いでくるから待ってて。このTシャツ預かってて。」まだそう親しくもない私達の関係などお構いなしに貴方は脱いだTシャツを私にポイと軽く投げた。真夏の海辺の風は貴方が投げたTシャツを違う方向に空高くなびかせた。私があっと声を出しながら遠ざかるTシャツを追いかける。風がおさまりやっと私はひらひらと舞い落ちてくるTシャツを手に取った。もうホントに、貴方は人使いが荒いんだからって冗談交じりに思いながら貴方が走って行った海辺を見る。しかし、そこに貴方の姿は無かった。辺りを見回してもどこにも貴方はいなかった。あの日、あの時、なぜ貴方が私に何も言わずいきなり姿を消したのか。その理由は何か。どこへ消えてしまったのか。
それは永遠に解けない謎だ。
もうすぐで夏。Tシャツを着る時期。また私はあの夏の日の永遠の謎を思い出す。
平穏とは皆分かっているように見えて分かっていないものである。平穏とは人生の中の何気ない日常であるという意味はきっと理解している人も多いだろう。
しかし、言葉の意味は分かっていても実際に平穏というものを肌で感じ、実感しているものは中々聞いたことがない。人間は常に刺激というものを欲しがる生き物だ。刺激を探し求めることに必死で平穏を感じることができていないのではないだろうか。
平穏というものに中々目を向けることができず、また今も何か違ったことを追い続ける。その姿はなんと醜いかと、筆者この胸で感じる。
そう考えると、人間にとって平穏とは、平穏でもあり、特別でもあるのではないだろうか。平穏とは一見普通だと思うが、日常で平穏を中々感じることが少ないとごく稀に実感したときに新しいものを発見した子供のようにときめくのではないだろうか。
その感情が特別なものと初めて触れ合ったときとよく似ているのではないか。
愛があるから平和になるか。それは永遠に解き明かすことのできない神秘の宝庫の1つである。それはなぜか。それは、愛とは素晴らしいものの反面、とても儚いものであり同時にみにくいものでもあるからだ。
愛は時には人生を支える大切なものになるかもしれない。しかし、永遠の愛は存在しないと思う。人間とは常に、自分の人生を満たすものを探し求め、それを見つけたら呆れるほど依存し、没頭するが時が経ち飽きてしまえばすぐにガラクタのように捨て、また新しいものを探すことを繰り返すものだ。
愛も同じだ。その時は凄く素晴らしいものに見えても、いつかは変わってしまう。愛を捨てるということは裏切るということでもある。裏切られた方は、裏切った方に大きな悪い感情を抱く。結果的に、愛が原因で平和からは遠ざかってしまう。もともと、愛というものを持たない方が平和を保てるのかもしれない。でも、生きている以上愛というものを誰しも一度は経験しなければならない。それがまた、愛の憎い所でもある。
こうして考えてみると、愛とは素晴らしい反面、みにくい所もある矛盾したものだということが言える。言ってしまえば、愛とは自分の人生をより良くするために都合良く利用するものでもあるのかもしれない…
たまにはずっと寝ていたい。
布団の中で目が覚めてもまた目を閉じることのできるあの幸せ。焦らなくたっていい。何も考えなくたっていい。それがどんなに幸せなことか、平日の朝は毎回思い知らされる。
たまには好きなことだけして過ごしたい。毎日毎日自分の進路のため、夢を叶えるため勉強している。
努力している。確かに素晴らしいことかもしれない。その努力のおかげで成長できたこともたくさんある。でも、疲れることもしばしば。今まで何度も夢を諦めて、見捨てて怠慢の方に行ってしまいそうになったか。自分の夢と、楽と葛藤している今。
何もしない安心感を感じたい。怠慢を思い切り味わいたい。