傷つけられても、傷つけられても、
人格者でいられますか?
自分なら出来ると思っていても、あまりの処遇に思考は壊れていきます。
これ以上の苦しみは要りませんと思えば思うほど、地獄はこちらにやってくる。
何故、と思えば思うほど、人格者では居られなくなります。
手を伸ばしても、誰も助けてくれない。
そう勘違いして、背中を支えてくれている手に気づかない。
殻の中に閉じこもって、もう誰も信じないと耳を塞ぎます。
だけど、唯一の盾であるこの殻はとても壊れやすい。外からの攻撃に、簡単に壊れてしまうでしょう。
それが壊れない理由を、考えてみる。
壊れた時は、そのまま踏み潰されて、この世を去っているでしょう。
今生きている現実に目を向ける。
そうすれば、殻の外で、何かが守ってくれていることを知るのです。
生きている感覚がなくても、大丈夫。
それは私たちの本来の姿。
手を伸ばしたあの時、本当に誰もその手を取ってくれていなければ。そのまま土に還るでしょう。
だけど、もし、届かなかっただけの可能性があるなら。
閉じこもっている殻の脆さを思い出して。
もしかしたら、外と誰かが居るかもしれない。
出ていくのが怖いなら、守られている感覚を覚えるまで、殻の中に閉じこもっていて。
きっといつか、殻は自然に割れて、世界があなたの誕生を祝福するでしょう。
傷ついた分だけ、殻は脆く、壊れやすい。
だからこそ、誰かに守られなければ、簡単に潰れているはずなのです。
誰かとは、
あなたの心の強さと、優しさに気づいてくれる誰か。
自ら殻の外に出れば、喜んでくれるような。
まだ覚悟の決まらないうちに殻からでてしまった時は、大丈夫だよと抱きしめてくれるような。
きっと、そんな人。
お釈迦様はおっしゃいました。
執着を捨てなさい。
そうすれば怒りも苦しみも感じない、穏やかなこころで人生を歩む事ができますと。
怒られたなら怒ってはいけません。
騙されたなら助けなさい。
それを実践した人は、私たちが神と呼ぶ存在に、最も等しい場所に居るように見えました。
お釈迦様は、自己を捨てるなとおっしゃいました。
私たち人間は、世界にとってのガンであるとおっしゃいました。
ですから私たちは、世界に石を投げられても、常に清らかなこころでいる為の修行をしているのです。
私たちは、自然を壊します。
私たちは、生き物を壊します。
私たちは、争います。
私たちは、煩悩より生まれ、欲望のままに生きます。
その本能を捨てなさいと、おっしゃっているのかもしれません。
私たちは既に罪深い存在であるにも関わらず、仲間同士で罪を擦り付けあい、他人を攻撃し、騙します。
それを辞めるべきだと言うお釈迦様は、この世に生まれるための業を背負っておりません。ですから私たちにはその言葉が届きません。
私たちは己で考えてお釈迦様の願いにたどり着き、己の力で実行しなければなりません。
かの方は、我々の幸せを願ってくれています。
怒りや不安のような感情を、感じないようにと教えを授けて下さいます。
幸せは、苦しみの中でしか幸せを見つけることができません。
怒りや不安、悲しみは、そのための能力です。
その能力を使うことなく、私たちが幸せを見つけることが出来るまで。
私たちの世界は永遠の牢獄なのでしょう。
自分を信じる力がない。
自信がない。
あなたは素晴らしい人だと賞賛される中で、
私は大した人間ではないと言いたくなる。
けれど、私だってそうだ。
あなたたちは素晴らしい人だと、無条件に、大切な人々の善良さや素晴らしさを称えるとき。
その信頼は、あなた達にとって毒になりえるのかもしれない。
優しい人であればあるほど、
私の言葉は重しになって、あなたを潰してしまう。
私が、今、潰れかけているように。
私たちは、お互いを思い合うばかりに、お互いを潰し合う。
あなたは、素晴らしい。
私は、愚か。
私は知っている。
あなたも同じことを呟くことを。
そうして私たちは、同じ意見を食い違えて、二人とも愚かになるでしょう。
しかし、私は証明出来る。
あなたが、素晴らしい人であることを。
あなたもきっとこう言ってくれる。
私が素晴らしい人であることを。
いいえ、そもそも証明する必要はないのです。
なぜなら私たちの間に争いは生まれない。
私たちは、お互いに愚かで、素晴らしい人。
私たちは、潰しあって争うのではない。
私たちは、お互いの信頼を勝ち取るために、喧嘩をするのです。
自信が無い時は、私を思い出して。
私も思い出しましょう。
分からないことは、分からないままでいい。
答えが出るまで、口を閉ざしてもいい。
まだ、結末にたどり着いていない。
それは神のみぞ知ること。
私もあなたも、分からないことだらけ。
過ちを犯しているかもしれないと怯えなくていい。
自分を信じれない時は、
あなたを信じる私を、どうか信じてください。
この世に生まれた事が、魂の修行であるとするならば。
目の前にある苦痛は、困難は、乗り越えるために予め用意されたものである。
生きることが未熟であるほどに、苦痛は、困難は、息も出来なくなるほどの強さで私たちを襲い、この命を奪っていくだろう。
死にたくないという、単純で脆弱な恐怖のために、
それ以上の凶悪なものと戦う意味はあるのだろうか?
乗り越えられると信じて立ち向かった先に、なにがあるのだろうか?
運が良ければ、見つけた宝箱の中身は満たされているだろう。
けれど、宝箱は有限だ。
生命はどこからともなく無限に湧いてくる。
次の時代を生きる者達のために、宝箱の中身を残しても、いつか無くなる。
どうせいつか無くなるのならと、全てを自分のものにする存在も、いつか必ず現れるだろう。
私たちの想像もつかないものは、この世には存在しないのだ。
もしかしたら、この中に悪いやつがいるかもしれないと、
集団の中で、たった1人そう考えた者がいれば、悪は必ず生まれている。
しかし、善も必ず生まれているだろう。
悪は、自分が悪では無いと騙すためによく喋る。
善は、悪などいないと考えるために、沈黙する。
だから悪が先に顕現する。
沈黙していた善が、それを認識して漸く口を開いても、既に混沌とした世界で耳を貸してくれる者はいない。
そして悪は、邪魔される前に善を淘汰する。
人々は、善は居ないと絶望するだろう。
そして、淘汰される前に己の善をも殺すのだ。
命を失うのを恐れ、魂の成長を辞めるのだ。
けれど、我々が魂の成長のために、この世に生を受けたと言うならば。この世に存在する意味など初めからない。
我々がここに、存在している事実がある。
我々は魂の成長を義務付けられてしまっている。
修行が辛いのは当たり前だ。
辞めたくなる、逃げたくなる、死にたくなる。
それを実行する度に、記憶を消され、この世に再び産み落とされる。
なんどでも。
ここで終わって、新しく生まれ変わる。
今得ている経験を信じて、この地獄を乗り越える。
どちらを選んでも、最終的に辿り着くところは1つだ。
苦しみを感じずに、幸せになりたいか?
苦しみを経験しなければ、幸せを感じられないかもしれない。
苦しみを抱きしめたまま、幸せを探し求めるか?
それは酷く険しい道だ。
けれど、私が抱きしめたいと思う子は、きっと後者だろう。
今まで苦しかっただろう、悲しかっただろう、頑張ったねと褒めて、抱きしめて、そうして、苦しみのない幸せを与えたいと考えるだろう。
あなた達は、私の抱擁を得るために、敢えて苦行を選んでいった。
私の元にいつ帰って来れるか分からない。
そんな不安も覚えることなく行ってしまった、未熟な魂達。
罪を背負ってしまった子は、中々戻ってきてはくれない。
会わせる顔がないと泣いている。
私はあなたが罪を犯した理由を知っている。
私の愛した魂を、あなた自身が愛せなかった。
私以外の誰も、あなたを愛してくれる人が居なかった。
ごめんなさい。
全て私が、未熟なままの魂を、引き止められないせい。
私は彼らのことも抱きしめなければいけない。
だけど、安心して。
私は、修行を終えた魂たちにの中から、あなたに相応しい子を選んで、あなたを迎えに行ってもらうから。
あなたたちはきっと惹かれあうでしょう。
二人で乗り越えておいで。
そうしたら、その苦しみは、もう我慢しなくていい。
自分の気持ちをぶつけて、喧嘩をして、苦痛や困難を抱きしめられるようになって。
そして、私の元へ、還っておいで。
一人でもいいとか、理解されなくてもいいとか言葉で言い聞かせてるけど、
結局誰かに理解して欲しくてたまらなくて、
そんな自分に嫌気がさす