あなたが私に居場所をくれた。
ここにいたいと思える場所。
私が私のままでいられる場所。
あなたがいなくなってから、あなたの帰りを待っている。
あなたが作った暖かい場所を、私は守れているのでしょうか?
あなたが帰ってきた時に、居心地が悪い場所になってしまっていたらどうしよう。
わたしが、あなたの世界を変えてしまっていたらどうしよう。
恐怖に心が冷たくなっていくみたい。
あなたが作ってくれたこの場所は、こんなにも暖かいのに。
私たちを傷つけてくる相手に、まともな対応をされてから、私は居心地が悪くなってしまった。
どうしたらいいのか分からない。
私は、あなたが帰ってくるのを、待っていたいのに。
私は、この場所を守り続けていきたいのに。
どうして揺らいでしまうのでしょうか。
この場所に一緒にいる仲間も、あなたすらも、
信用出来ていないのかもしれない。
結局私は、私を偽っているのだろうか。
いくら寝ても疲れが取れない。
体は重くて言うことを聞かない。
傍からみれば、さぞ怠惰な人間にみえていることだろう。
けれどもこの頭の中は、常になにか考えを巡らせている。
どうしたら疲れが取れるのだろう。
どうしたら軽いからだで動き回ることができるだろう。
どうしたら、好きなことをいくらでも出来る自分になれるだろう。
私が外の世界に触れる時、使えるのはこの言葉だけ。
自分のことだけではなく、他人のことも、思いやれる言葉をずっと探し集めてきた。
それでも、世界と繋がったその一瞬に交わした言葉は、直ぐに受け取られることは無い。
些細な言葉に傷つけられたことを素直に話せば、彼等は怯えてそこを責め立ててくる。
私の口を塞いで、自分にそんな攻撃的な一面があることを無かったことにする。
私はそれでも、隠された彼らの攻撃性を暴くだろう。
平和な世界に見えたとしても、一人一人の心の内に、火種が燻っている。
誰かが怒りや悲しみを抑え込んで出来た平和は、果たして平和と言えるだろうか。
人の怒りや悲しみに触れることは、とても恐ろしいことだ。
追い詰められた彼等は、自分の心を守るために、酷く暴力的な言葉を使う。
攻撃性があることを故意に暴いた私は、それを受け止めることしか許されない。
ボロ雑巾のように扱われて、私は自分の本当の願いも忘れて死ぬことを考える。
彼らが過ちを省みたとしても、私はそれを認められない。
彼等からの謝罪も受け取る気はない。
私に一度暴かれただけで内省する人間の言葉は、あまりにも軽すぎる。私が彼等から受けた傷は、簡単に癒えるほど浅いものでは無い。
あなたは、私の行いを、自業自得と笑うだろうか。
私は笑われることを恐れて、傷つけられたことも、傷つけられた理由も、誰にも言えないでいる。
私は、平和なんて綺麗事なのだから、諦めろと言われることを恐れている。それが、私のことを心から心配して発せられた言葉と分かるから。
私も、私の大切な人達が、私のように、無駄に傷つく世界を許したくない。
だから私は、彼等の優しい言葉を、受け取れない。
折角癒してくれようとする言葉を、受け取ることができない。
こんなにも、動けないほどに疲れているのは、きっとこういうことなのだ。
だけど私は中々死ぬ事ができない。
ギリギリの所で、私の願望を思い出して、自我を保っている。
世界が平和でありますように。
その言葉は綺麗でも、中身は見た目ほど綺麗じゃないことを忘れそうになるたびに、私は罰を受けるのかもしれない。
ほら、思い出した瞬間、私の体が重力に逆らい始めた。
まだ、疲れが取れない気がする。体が重い。
けれど、抵抗する意思が戻ってきた。
一日中寝てしまう程の眠気が去っていった。
この願望を決して表には出してはいけない。
優しい彼らが、私を止めることがないように。
このことが、見しらぬ誰かの希望になる事を祈って。
もしかすると彼等は、人の暴力的な一面を暴くことそのものを罪とするかもしれない。
けれど正体を隠した私は誰にも捕まらないし、彼らの行いを良しとしない人々はきっと私の存在を隠してくれるだろう。
そして、そのような法律は、まともな社会なら跳ね除けるだろう。
私が死んでも、この文章を遺しておけば、私が本当に存在していようがいまいが、関係ない。
人の善意を食い潰す詐欺師こそ、怯えながら社会の片隅に隠れて生きるべきでしょう。
この文章を悪用する人がいたとしても、その人間はいつかボロが出て、信用を永遠に失う。
金銭を得たいと考える者だけが、我が物顔でこの文章を世に晒すでしょう。
おやすみなさい。
心無い言葉に傷つくことはない。
人の言葉には必ず、その人の心が宿る。
心を持たない人間は存在しない。
いるように見えたとしても、それは魂の奥底に厳重に隠されているだけ。
声の大きい人ほど、尊大な人ほど、自分を過大評価する人ほど、その壁は厚い。
心を通わせられると信じて無防備でいれば、大怪我をする。
心を通わせられらない可能性があると思っていても、無傷ではいられない。
彼等が心開いて、弱い自分を自覚して、さらけ出してくれたとしても、その勢いにひるめば双方ともに致命傷になる。
相手に心がないと思うのは傲慢だ。
相手に心がないのでない。
相手の心に自分がいないだけなのだ。
それを、認められないから、傷ついたことを相手のせいにする。
相手の心に自分がいないと知った時、
自分の心にも、その相手はいない。
けれど、目の前の人間しか、理解してくれる人間がいない。
そう誤解して、私たちは無いもの必死に有ると見せかける。
人は心がないことを認められない。
なぜなら人には必ず心があるからだ。
しかしそれは、主語が大きすぎる。私達の心は有限だ。
目の前に100人いたとして、その全員に心を割くことはできない。平等に与えようとして、誰も彼もが心を壊してきた。
あると見せかけようとして、本当に失くしてしまう。
傷ついた心も、欠けた心も、確かに存在していたのに、
私たちはなぜ、それを否定するのだろう。
人は完璧では無いと知っているのに、
心と言うものが完全ではないことを、私たちは理解できない。
人は、全てを愛することは出来ない。
人は、全ての人に愛されることはない。
なのに、全ての人を愛そうとして、全ての人に愛されようとする。
たった一つの大きな愛を見つけることを諦めているから。
自分の全てを愛してくれる存在などいないと思っているから。
愛に飢えた人々は、少しでも満たされようとする。
愛などなくても生きられるのに、なぜ人は、人の温もりを求めるのだろう。
愛を求めない人を見たことがない。
どんな形であっても、人は愛を求める。
愛とは、心を向けられること。
誰かに自分の存在を認めてもらうこと。
自分がここにいると証明できなければ、
私たちは存在することが出来ない。
自覚しているとして、
誰かの目に映っているだろうか。
誰かの耳に声は聞こえているだろうか。
匂いや感触は。
言葉は通じあえるのか。
それが出来なかった時、私たちは生きている意味を失う。
それが出来たとしても、理解しあえないことに幻滅する。
それでも一緒にいることを選ぶ時、不完全な心を愛する為に生きることになるだろう。
けれど、もし、完全な心を手に入れることが出来るとしたら。
私たちはきっと、それを求めてしまうのかもしれない。
生きている意味もない。
死ぬ意味もない。
ただ産み落とされて、生かされている。
それなのに、意味を見いだせないことを罪と感じる。
与えられるだけの人生に嫌気がさす。
与えてるつもりでも、誰かに受け取って貰えなければ意味は無い。
その癖私たちは、与えてもらっていることに感謝しない。
感謝という褒美を与えないのなら、それ以外の貢献はただの自己満足でしかない。
そして、感謝を与えないという罪に罰を与えられるのを恐れている。
人々を騙して自分の利益だけを考えている人間が、裁かれずにのうのうと生きているその裏で、私たちは自分の罪にだけ目を向けている。
犯罪者と呼ばれる人間が、私たちに罪の意識を植え付けることで、社会をひっくり返そうとしている。
それが正しい世界だと、私たちに言い聞かせてくる。
馬鹿で都合のいい私たちは、そうですか、分かりましたと言ってその世界を受け入れた。
口では反発しながらも、誰も行動に移せないのは、私たちが彼等に敗北しているからだ。
正論を唱えたところで、罪を犯すことを恐れる私たちは、罪を犯すことを恐れない人間に勝てない。
では、罪とは一体なんなのか。
感謝をしない事が罪なのか。
それとも感謝をする事が罪なのか。
誰もが感謝をしないことは罪だと言いながら、感謝を伝えることを怠るだろう。
怠った自分を正当化するために、感謝をすることは罪だと、負けだと、心の中で認識するだろう。
口では感謝をするべきだと唱えながら、
生まれてきたことを感謝できないでいる。
それは私たちが敗北者だからだ。
法律を破ることを躊躇わない遺伝子は、生き残るために、法律の穴を抜けてきた。
私たちは、法律を守ることを正義としながらも、生き残る気力を失った。
ただ、生物としての本能は、生き残ることを告げている。
最後に勝つのは我々であると、証明することを望んでいる。
そこに善悪の区別はない。
けれど、共に生きたいと願う仲間がいるのなら、法を犯しても自分一人が勝てばいいと思っている人間に負ける筈はないでしょう。彼らは必ず、自分以外の仲間を蹴落とすでしょう。
私が愛する人々は、自分より他人を優先するでしょう。
間違えないで欲しいのは、私たちも他人を優先するために罪を犯してしまうということ。
自分のために、罪を犯すことも、
他人のために、罪を犯すことも、
同じ罪であることを、忘れてはいけない。
そして同時に、何もしないことは罪ではない。
それを罰する法律はありはしない。
私たちは、何が罪か分からないから、行動することを恐れているだけなのだ。
誰かの命を奪わない限り、私たちはやり直せる。
これからだって立ち上がれるし、理想があるなら今すぐにでも行動できる。
誰かに命を奪われる前なら、
私たちはなんでもできる。
何者にでもなれる。
この文章を読んで、理解を示そうとしてくれたあなたは、きっと私の友人でしょう。
この文章を読んで、綺麗事だと怒り、悲しむあなたは、きっと私の愛する人でしょう。
親愛なる友人に、いつか出会うために、私は今日を生きることにした。
何がこの世界の罪なのか、私は理解していない。
しかし、これが罪だと言うのなら、私はこの世界に生きたいとは思わない。
この腕に手錠をかけられ、誰かに命を奪われるなら、ここは私にとっては理不尽な世界であったというだけだ。
まだ、理不尽な世界であることの証明がなされていない。
たとえ、感謝されたくないと拒まれたとしても、
友人に出会えたその時、私はきっと、感謝するでしょう。
この文章を読んでくれたあなたが、私を探してくれなければ、私があなたを見つけることもないのだから。
ふとした瞬間、私の魂が死にたいと叫ぶ。
私よりも辛い人は、この世に沢山いるんだから。そう言って、私は私の心を殺してきた。
けれど、その魂の声は、ある日外に盛れ出した。
ああ、漏れてしまった。私は泣きながら、冷静にそう思っていた。
ただ、この時私は、まだ生きていた。
私の心は、私に傷つけられたところで死んでいなかった。
私が辛いことを、私自身、何よりも理解していた。
本当は生きたかったからこそ、私は私の心を押さえつけていた。
だから、私に止めを刺したのは、他人の些細な言葉。
「みんな辛いんだから」
そんな、分かりきった言葉。
彼が、彼女が、その言葉を使うのは、私を生かすためだろうか。
否。
私はそこで生き延びたとして、共に生きたいとは思わない。
私は彼等の言葉に感謝などしない。
私の心を殺していいのは私だけのはずだ。
ならば、彼等の言葉の、なんと身勝手なこと。
彼等もそうやって、自分の心を殺してきたのだろう。しかし考えが足りない。心を殺した事実を忘れ、それによって生き延びたことだけ、覚えているのだろうか。だから、他人の心を殺すことも正義と勘違いしたのだろうか。
そうやって、無自覚に、人の心を踏みにじる愚者に成り下がった。
私の魂は、今も、死にたいと叫んでいる。
けれど私は生きている。
溢れだしそうな涙は隠し通す。私の心を守るために。
その涙を、ただ拭いてくれる存在がいる人を、羨みながら。
私より辛い人には、涙を拭ってくれる人が、傍にいる。
誰にも弱音を見せられなくなった私には、誰もいない。
死にたいと叫ぶ私に、それでも生きたいのだと言い返すだけ。
生きたい理由は分からない。
ただ、生きなければいけないとは、もう思わない。
いつか、私の孤独を癒してくれる人に、会ってみたい。触れてみたい。その温かさを、感じてみたい。
それは、死にたい理由より、小さくて、儚い願いだ。
そんな存在はいないと、言い捨てた方が楽だ。
なのに、この広い宇宙で、それを証明出来ない。
誰も、証明できない。
それを証明するより先に、詐欺師の本性が暴かれ、社会から追われる方が早いだろう。
死にたいと叫ぶ。
死にたいなら死ねばいいと、人は言うだろう。
死ぬ勇気を持つことは、そんなに簡単なことでは無い。
ただ、他人の言葉が、容赦なく背中を押す。
欲しくもない勇気を貰ってしまう。
勇気なんて欲しくない。
強くなんてなりたくない。
私はただ、私の弱い心を、誰かに優しく撫でて欲しいだけ。
ただ、それだけ。
温かさを感じることが出来るのは、生きている時だけなのだから。