共存と両立

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心無い言葉に傷つくことはない。
人の言葉には必ず、その人の心が宿る。

心を持たない人間は存在しない。
いるように見えたとしても、それは魂の奥底に厳重に隠されているだけ。

声の大きい人ほど、尊大な人ほど、自分を過大評価する人ほど、その壁は厚い。

心を通わせられると信じて無防備でいれば、大怪我をする。
心を通わせられらない可能性があると思っていても、無傷ではいられない。

彼等が心開いて、弱い自分を自覚して、さらけ出してくれたとしても、その勢いにひるめば双方ともに致命傷になる。

相手に心がないと思うのは傲慢だ。
相手に心がないのでない。
相手の心に自分がいないだけなのだ。

それを、認められないから、傷ついたことを相手のせいにする。

相手の心に自分がいないと知った時、
自分の心にも、その相手はいない。

けれど、目の前の人間しか、理解してくれる人間がいない。
そう誤解して、私たちは無いもの必死に有ると見せかける。

人は心がないことを認められない。
なぜなら人には必ず心があるからだ。

しかしそれは、主語が大きすぎる。私達の心は有限だ。
目の前に100人いたとして、その全員に心を割くことはできない。平等に与えようとして、誰も彼もが心を壊してきた。

あると見せかけようとして、本当に失くしてしまう。

傷ついた心も、欠けた心も、確かに存在していたのに、
私たちはなぜ、それを否定するのだろう。

人は完璧では無いと知っているのに、
心と言うものが完全ではないことを、私たちは理解できない。

人は、全てを愛することは出来ない。
人は、全ての人に愛されることはない。

なのに、全ての人を愛そうとして、全ての人に愛されようとする。

たった一つの大きな愛を見つけることを諦めているから。
自分の全てを愛してくれる存在などいないと思っているから。

愛に飢えた人々は、少しでも満たされようとする。

愛などなくても生きられるのに、なぜ人は、人の温もりを求めるのだろう。
愛を求めない人を見たことがない。
どんな形であっても、人は愛を求める。

愛とは、心を向けられること。
誰かに自分の存在を認めてもらうこと。

自分がここにいると証明できなければ、
私たちは存在することが出来ない。

自覚しているとして、
誰かの目に映っているだろうか。
誰かの耳に声は聞こえているだろうか。
匂いや感触は。

言葉は通じあえるのか。

それが出来なかった時、私たちは生きている意味を失う。

それが出来たとしても、理解しあえないことに幻滅する。

それでも一緒にいることを選ぶ時、不完全な心を愛する為に生きることになるだろう。

けれど、もし、完全な心を手に入れることが出来るとしたら。

私たちはきっと、それを求めてしまうのかもしれない。











4/30/2024, 11:54:08 AM