幸福は外にあるが
幸福感はあなたの中にあるのだ
まっすぐな道は寂しいが
曲がり道は恐ろしい
四月に初めに咲いた桜を眺めて、それを確かに綺麗だと思った。雨降りの日の後、葉桜をまた眺めては時は無情だと思った。それが僕の心に似ていたから、葉桜を見る度に僕の中のどこかが小さく痛んだ。僕も結局はその程度の人間なんだと桜は毎年決まって教えてくれた。
でも、それが僕なのだと認めなくてはならなくて、それを認めたくなくて、愛を知っては時を言い訳にして忘れていく僕がどうしても許せなくて、それでも時は僕に忘却を与えて、僕はどうしてこうも醜い生き物なのだろうかと、春はそんな気分にさせてくれる。
それはきっとこの先咲く紫陽花や百日紅や夾竹桃や彼岸花やスノウドロップも教えてくれる。
人生は色付いていた。いつだって花の色で、それを忘れないように、忘れないように、明日を迎えたくない僕を、決して戻ることはない時計の針を押している僕のことばかり花がこちらを見つめているかのように綺麗に咲いている。
僕は花が好きだと思う。時の具現のようだから。
「おかしいと思わない? 天国が楽園なのはまだいいとしてさ、死ななきゃ楽園に行けないなんてさ、そんなのおかしいよね?!」
彼女の怒鳴り声が閑散とした商店街に響く。
僕はそうだね、といつものように相槌を打ちながら宥めている。
僕と彼女は物心ついた頃からの幼馴染で、小学生の頃からこの商店街が通学路で中学生になった今でも(頻度は減ったけれど)夕暮れを二人並んで歩く。
中学生になってクラスも離れてからはそれぞれの友人ができたりもして、ゆっくりと、しかし着実に枝が分かれていく植物みたいに別々の道を進みながら、それでも何か困ったことや愚痴を吐きたい時には今日みたいに一緒に帰路を共にする。
声を掛けてくるのはいつも彼女の方からで、僕はそんな時必ず彼女の誘いを断ったりはしない。
夕暮れの商店街はあの頃の活気付いた景色が寂れたみたいにひどく枯れてしまっている。小学生の頃は魚屋も、八百屋も、中華屋も賑わっていた。駄菓子屋のおばぁは腰を悪くしたという噂を聞いてから店が開いているのを目にしていない。夏の日に二人でパキンとふたつに折れる氷菓を買った思い出だけがその店の前を横切るたびに香る。
「楽園が死んだ後に訪れるなんて絶対におかしい! 私は私がいる今ここを楽園だと思えるような生き方をするの」
一直線の商店街に響く君の声が今も聞こえる。
僕は「僕も一緒に連れてってくれよ」と言う。
君はまっすぐに歩いていた。一歩一歩が着実で、そこが交差点だと気づいてないみたいに迷いのない歩をしていた。それなのに、僕が遅れをとりそうになると必ず君は足を止めて振り返り、僕の目をしっかり掴んで掌をいっぱいに開いてこちらに突き出した。
「あんたなしの楽園なんてないんだから!」
君が交通事故で亡くなってから十年が経って僕は夕暮れの商店街を一人歩いている。枯れた両脇のシャッター街から君の声が夏の風と共に吹いてくる。
僕は額に滲む汗を拭うことすら忘れ、僕の少し前を歩く君に延びる影を思い出している。
僕のいない君のいる世界が楽園であることを祈っている。
君の少し後ろを歩く僕の楽園がここにあった。
「流れ星に願い事をするなら何を願いますか?」
普段はささくれた性格に思える彼女が急にそう僕に尋ねた。
新社会人になり、挨拶程度しか交わしていなかった僕らは新入社員歓迎会という名のくだらない飲み会に半ば強引に参加させられた。行きたいわけなどあるはずもないが断ることの方が後々面倒だと思ったのだ。
つまらない飲み会のつまらない上司のつまらない話に作り笑いをして心のどこかが削られていく感覚をアルコールで鈍らせながら何とか二時間乗り切り、店を出て夜風で顔を覚ましているとふと彼女と目が合った。僕はすぐに目を逸らした。
二次会の誘いを上手くすり抜け、ほろ酔いの頭で駅へと向かっていると「ねえ」と声をかけられた。振り向くと横には頬を少し赤らめた彼女が僕の瞳をまっすぐ捉えていた。「もう一杯どう?」と彼女は言った。
コンビニで僕はロング缶のハイボール、彼女は梅サワーを選んで買った。会計をしようとしたら彼女はいいから、と拒んだが僕はいや、払うよ。と言うと彼女は「うるさい、いいったらいいの」としかめ面をしたので僕は代わりになりはしないがお酒とつまみの入ったレジ袋を持って近くの公園まで歩いた。
僕らがそこで何を話したのか、翌朝の僕はよく覚えていなかった。とにかく長い時間を彼女と話した。声が出るほど笑ったりしたわけではなかったが、不思議と彼女との会話はまるで春の風みたいに心地よく流れ、酒が進んだ。唯一覚えている会話はこれだけだ。
「流れ星に願い事をするなら何を願いますか?」
まるで酒など一滴も飲んでいないかのような白百合みたいな顔色で僕にそう尋ねた。街路灯が夜の中にいる彼女の顔をさらに綺麗に照らしていた。まだ新しい黒いスーツと細い首筋との明暗は夜空に浮かぶ三日月を思わせた。
僕はそこできっと適当な返事をした。すると彼女は「流れ星って数ミリの塵らしいですよ」と言った。
「そうなんだ、知らなかった」と僕が言うと彼女は、「私はね、もし流れ星が願いを叶えてくれるならね、」そう前置いてこう言った。
「もっと、もっと大きくて綺麗な流れ星が見たい。まるで月がそのまま降ってくるような、そして私のところへ落ちてきて、私もろとも辺りを全部粉々にしてほしいです」と言った。
それからのことは忘れてしまった。
翌朝、若干二日酔いを感じながら出社すると彼女の姿はなかった。そして二度と彼女と会うことはなかった。
時が経ち、僕はたまに彼女と話をした公園で夜空を見上げる。都会の空は濁っていて、星など見えやしない。
それでも、僕は願ってしまう。月のような彼女が流れ星になってまた僕の元へ降ってきてはくれないかと。そして、彼女があの日の願いが僕の願いになる。
僕もろとも粉々にしてはくれないかと。
彼女の願いがあの日よりも少し理解できる気がする。