行事ごとに見向きもしなくなったのはいつからだろうか。
1DKの狭いマンションで、一段だけ、たった二体だけの人形を並べておままごとのようなことをしていたことは、薄ぼんやりとしている幼少期の記憶の中でも鮮明に思い描くことが出来る。
クラスメイトのものより小さなそれが少し不満で、それでも行事の度、箪笥の奥から子供にとっては大きなダンボールを引っ張り出してくれる母に、形容しがたいむず痒さを抱いていた。
忙しい日々の中で、いつからか見向きもしなくなったそのダンボール。十年以上の月日が経って久方ぶりに取り出されたそれは、埃を被ってなお色褪せない存在感を放っていた。
この子にもいつか「いらない」なんて言われる日が来るのだろうか。古臭い行事と人形だと呆れられるのかもしれない。自身のことを回想してみれば、わけも分からず飾っていた当時より、大人になった今の方がこの行事を心待ちにしているように思う。かつての母も、こんな気持ちだったのだろうか。
与えられた愛を受け継ぐように。彼女が大人になった時、この人形をささやかな思い出の品として慈しめる日が来ることを願って、そっと真新しいベビーベッドのそばに飾った。
『ひなまつり』
小窓から入る光がオレンジ色を通り過ぎた頃。私はどうにかゴミ袋につめたそれをリビングに放り出して、薄汚れたソファに崩れ落ちた。物で溢れたテレビ台の上にはプルタブの開いたお酒が中途半端な量残っている。一時間は経ってしまったから、とっくに温くなっているだろう。
緊張状態特有の奇妙な興奮が過ぎ去れば、後に残るのは徒労感だけだった。最中は学校のことも友達のことも過ぎらず、そんなことに頭が回るようになってやっと喉がカラカラに渇いていることに気がついた。
しかし、あの男が家にいてこんなにも静かだった日がかつてあっただろうか。母がいた頃だってなかったかもしれない。
沈黙が己はやり遂げたのだという事実を突きつける。私は勢いのまま、飲みたいと思ったこともないアルコールに手をつけた。
ここ数年で嗅ぎなれてしまった臭いだけを吸い込んで、これをよく飲んでいた男の事を想う。そして妙に寂しくなった。私の行いが非難されてしまうかもしれないことに気がついたからだ。それはとても不条理な事だった。
感謝なんて腹も膨れないものを向けられて、一体これまで何匹の家畜が屠殺されたのだろう。箸にもかからない嗜好品のために何匹のラットが生贄になったのだろう。
今も命なんて星の数ほど生まれては消えているだろうに、それが一方的に人間の都合で否定されるのは、なんだか納得がいかなかった。
だって、所詮私たちは奪われることを恐れて奪わないだけだ。あいつは私を侮っていた。だからこうなってしまった。言わば私は割を食わされた被害者だった。
アルコールが回っているかも分からない頭で冷静に考えた。私は貧乏くじを引いたのだ。悲しいがどうしようもないことだった。けれど世間はきっと納得しないから、これは隠さなければならない。
死んでしまった男への憎しみはもうなかった。彼は死をもって償ってくれたのだから。私はろくに弔われることもないだろう男を想って涙を流した。この男のために泣くのは、世界中を探しても私だけだろう。死に際に立ち会ったのが私で幸せだったのかもしれなかった。
世界中の虫や家畜や、目の前のそれ。可哀想にも消えてしまった小さな命の冥福を祈って、残りのアルコールを一気に煽った。
『小さな命』
魔王と呼ばれたものが倒されて半世紀が経つ。
祝福のムードが漂うこの国で、私の長い営みもそろそろ終わりを告げようとしていた。
人でごった返す城内から抜け出し、それなりに手入れされているらしい庭のカフェスペースに腰掛ける。
ここに来るまでいくつか近隣の街を見て回ったが、壮絶な戦いの余波で倒壊した家は人の手によってより丈夫に建て直され、抉れむき出しになっていた地面には薄墨色の石畳が敷かれていた。「魔王城」というこの国屈指の観光地のため、周辺の地域は潤っているそうだ。
住人には畏怖も安堵もない。平和な日常を当然のものとして享受している。半世紀という時間は、彼のことを過去のものにしてしまったらしい。
彼が倒されて以来訪れていなかった土地に最早面影はなく、予想していた感慨も湧かなかった。
私がこの庭で育てていた花々も───戦場となった上半世紀も経っているのだから当然ではあるが───見当たらない。
庭師であった私が関われたのは庭しかなかった。己が懐かしがれるものなどもうどこにもないのだと突きつけられたようで、身の程知らずな寂しさを覚えた。
かつて私と彼だけのものだったこの場所は、今は人の幸せな気配で満ちている。こんなに賑やかだったことは記憶の限り一度もないけれど、もしかしたら彼は本当はこんな空間を望んでいたのではないかとさえ思えた。そんな人だった。
皆に見下され笑われていたみすぼらしい私に居場所を与えて下さった。魔族達を鼓舞しながら最前線で力を振るい、決して仲間を見捨てはしなかった。役たたずの私が生きることを望み、最後にはそっと逃がして下さった。
力のない同族への慈悲でしかなかったのだろうが、それでも私にとって特別だった。
親愛なる私の君。あなたに愛のひとつも伝えられなかった臆病者ですが、最期はどうか、あなたの愛したこの場所で迎えることをお許しください。どうか、今度こそ。
『この場所で』
肌寒い空気に両手をすり合わせる。暖房の効いた学校から出たばかりの僕には十分に寒いが、今年はこれでも暖かい方らしい。毎年雪が降るこの地域だが、今年の雪は年を越してからになるだろうと聞いた。だからどうと言う訳でもないが。
大人になれば、昔は好きだったものに興味が無くなることは往々にしてある。僕にとっては雪もそのひとつだ。それを言えば、隣の彼女は眉を吊り上げて否定するのだろうけど。
「寒いねぇ」
「そうだね」
「でも息は白くならないなぁ」
「あれは空気が綺麗な時はならないからね」
「え、ほんと?」
「しらない」
聞きかじりの豆知識を披露して、いつもの道をちんたら歩いた。これだけ寒いと自転車を持ってこれば良かったかと考えてしまうが、隣の彼女は学校の通学手段に自転車を登録していないから、仕方ない。
「雪が降ったらさ、一緒に雪だるま作ろうよ」
「恥ずかしい」
「えっ、何が?私が?」
「うん」
「辛辣!」
もこもこの手袋で肩を殴られる。もこもこな上にコートを着ているので全く痛みは無い。が、大袈裟に吹き飛ばされておいた。
「じゃあかまくら作ろう!それか雪合戦!」
「…………」
「今それも恥ずかしいって思ったでしょ」
「言わなかったんだから見逃してよ」
もう、と怒ったポーズをとる彼女をいなして家路を急がせる。こんなことを言っていても、どうせこの幼馴染は約束だなんだと僕を引っ張り出すのだろうけど。僕もそれがわかっているから、安心して軽口を叩けるのだ。
ぶすくれる彼女を横目で確認して、少し緩んだ口元をマフラーで隠した。彼女が鈍くてよかった。
雪の降る日、誰よりも早く僕を誘い出す彼女を期待して、今年も僕は雪を待つ。
『雪を待つ』
祖母が亡くなった。
亡くなる数日前から祖母の状態は伝わっていた。親戚や家族は頻繁に様子を見に行っていたらしいが、私は薄情な孫で、課題だなんだと言い訳をつけて見舞いにも行きはしなかった。
数年前から親戚の集まりに出向くのをやめ、学校を言い訳に通夜にさえ顔を出さなかった私は珍しいらしい。顔も曖昧な親戚一同への愛想笑いで頬が引き攣る。元々表情を作るのは苦手だ。
私は祖母の久方ぶりの孫で、可愛がられていた。らしい。そんな祖母の葬式だと言うのに、私は極めて冷静だった。冷めていたと言い換えてもいい。和気藹々とした親戚の会話に、私だけではないと安心していた。
控え室の隅に縮こまり、葬儀では間違っていたとしてもちっとも分からないお経を聞き流し、焼香中に腹痛で一通り苦しんだ後、祖母の亡骸に花を添えた。
美しいまま棺桶に横たわる彼女は正しく眠っているようで、箱いっぱいの花だけが、それが動かないものであるという印だった。
「会えるのはこれが最後だ」という進行役の言葉に、親戚一同が一斉に泣き出したのが印象的だった。その瞬間までしゃんとしていた祖父も、叔母も、従姉妹も泣いていた。この家に嫁入りした身である母までしゃくりあげていたのは予想外だった。
真っ赤になった弟の目に込み上げるものはあったけれど、天邪鬼な私は、恐らく終始微妙な顔をしていただろう。感情をさらけ出せるほど素直でも、完璧に取り繕えるほど大人でもなかった。
けれど、不思議なものだと思う。祖母は既に死んでいるのに、皆は祖母を惜しがるように棺を囲んだ。意識どころか命もない祖母を囲んで涙を流すのは、少し奇妙に見えた。
一連の流れを終えた今、葬式は、私たち遺されたもののためにする行為なのではないかと思う。お別れを告げて、私たちの精一杯で送り出し、天国で幸せになっただろう、なんて妄想を垂れる。遺された私たちに与えられた、故人を偲ぶための時間。
だからきっと、彼女を慕う子や孫が涙を流す光景は、彼女が注いだ愛の結果そのものなのだ。
私はやはり場違いな気がしながら、骨になった彼女に確かに与えられた愛を数えた。
自信がなくて顔を見せられなかった。可愛がってもらったから失望されたくなかった。
お見舞いくらい行っておけばよかった。ごめんね。
『愛を注いで』