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12/8/2023, 4:21:14 PM

 日も落ちた、碌に人の手も入っていない山道を転がるように駆け下りる。冷たい空気が呼吸の邪魔をして、満足に息を吸うことすらできない。乾燥した空気故か恐怖故かも分からない涙が、元々悪い視界をさらに悪化させる。
それでも、木の枝に肌を引っ掻かれ、根に何度も足を取られながら必死に走った。本能的な恐怖だけが私を突き動かしていた。

 どうしてこんなことになったのか。全ては今話題のパワースポットだというこの村を訪れてから始まった。やはりこんな所に留まるべきではなかったのだ。共にここを訪れた大学の友人達は順番に姿を消し、遂には私と隣を走る友人しか居なくなってしまった。

 四方をハチャメチャに飛び回る懐中電灯の光が一瞬私の体を照らして、少し後ろを走っていた友人がバランスを崩したのが分かる。

「亜紀ッ!走って、もっと早く!」
「も、無理……」
「亜紀!」

 咄嗟に振り返った私を逃がさないと言わんばかりに懐中電灯が照らす。一瞬の逡巡の後、焦点を合わせられたことに竦み上がる体を叱咤して、遅れる彼女へと手を伸ばした。

「諦めちゃ駄目!もう少しで公道に出るから!」

 せめて電波のある所まで行くことが出来れば。最後の希望を胸に、だらりと垂れ下がった彼女の腕を強引に引きつける。
彼女は俯いていた顔を上げ、一筋涙を流した。

「ありがとう……」

 こんな時だというのに瞠目してしまった私を追い詰めるように、事態は悪化の一途を辿った。
 動揺で軸が揺らいだその瞬間、隣から伸びてきた腕が私を掴みあげ、強引に投げ捨てたのだ。彼女も別方向に引っ張られたようで、支えを失った体は容易く地面に叩きつけられた。山道を数メートル転げ落ちる。意識が遠くなった一瞬、ざわりと人の声の様なものが聞こえた気がした。

 次に何とか上半身を起こした時には既に、満身創痍の私の周囲を無数の気配が取り囲んでいた。

 眩い光に照らされて咄嗟に目を覆う。逆光で顔は見えないが、一人の人間が私の前に立ち塞がったことだけは分かった。恐怖で地面を這いながらも、その人影から目を逸らすことができない。最早逃げることも出来ない私に、それは棒のようなものを振りかぶって。
 振り下ろされる凶器だけが視界にはっきりと浮かび上がり、世界がスローモーションの様に見えた。

その瞬間。
 何故だろうか。安心した様な笑顔で涙を流した、彼女の顔を思い出した。

 「話題のパワースポット」だと言う割に人気のない村。私達を遠巻きにして決して近づこうとしない村人。村に着くなりパンクしたレンタカー。ひとりひとりと消えていく友人。村人と話を付けて来たと毎日食事を用意してくれた彼女。

────そういえば、この場所を私たちに提案したのは誰だったっけ。

 そんな疑問を最後に、私の視界はブラックアウトした。

「ごめんね。」


『ありがとう、ごめんね』

11/16/2023, 9:36:09 AM

目の前の何の変哲もないアパートの扉の奥を、途方に暮れて見つめた。
チープなインターフォンの音を聞いて、5分は経過しただろうか。ふと思い立ってドアノブに手をかけたことを、こんなにも後悔するとは思わなかった。
どうしてこんなことになったのか。私は沈黙から逃避するように最近の出来事を思い返していた。



不倫は遺伝するらしい。
あの人の父親もおじさんもそうだったらしいと義母になる予定だった人から聞いた。聞く機会なんてない方が良かったけど。

今日も粛々とスマホを見せてくる彼に、これでは何の意味もないじゃないかと当たりたくなる。履歴なんて消せばいいし、私の知らないアプリやサイトを使っていたら私には分からないのだから。
「なあ、反省したんだ。浮気なんてもう二度としない。」
それに続く言葉を受け止める気力が無くて、ぎこちなくその場を流した。

物言いたげな目をした彼は唇を噛み、短く断って今日も寝室へと籠ってしまう。それにやってしまったと思う私は、まだ彼のことが好きなのだろうか。
唇を噛むのは困った時の彼の癖で、私はいつも辞めるように諭していた。今思えばそんな時間までも優しく悲しい。視界が歪むのを止められなかった。あの頃に戻りたいのに、それを一番難しくしているのは私自身じゃないか。


「はあ?あんたはなんッにも悪くない!」
彼女がテーブルを叩いた拍子に飲みかけのグラスがそこそこ大きな音をたてて、肩を竦めた。カフェやなにかだったら避難の目を向けられていたことだろう。
そんな音など歯牙にもかけない高校時代の友人は、大袈裟に頭を抱える。
「さっさと別れた方がいいって!」
「でも仕事も辞めちゃったし、お義母さんたちにもよくして貰ってるし……あの人もね、反省してくれてるから。」
彼の親族一同に頭を下げられたのはまだ記憶に新しい。彼も彼の家族も根はとてもいい人なのだ。
「甘い!グラブジャムンより甘いわ!こんな状態のあんた放って浮気なんてろくでもないに決まってるんだから!許したくないならそれでいいの、あんたが申し訳なく思う必要なんて一ミリもない!」
「わ、なんだっけそれ。」
「インドかどっかの食べ物……じゃなくて、ねぇ!」

「あんた、猫とか興味無い?」

三食寝床つき、お腹の子の様子見ながらでもできる、猫とおまけの食の面倒見るバイト、やってみない?


そして時は現在へ。目の前の男は頭痛を抑える私など気にした様子もなく子猫に追い回されている。
「朝晩寝床つきののペットの世話、怪しいと思ったけど……」
まさかこう来るとは。そういえば友人は、高校時代から不意に突拍子もない問題を持ち込んでくることがあった。十年経った今もあの体質は健在らしい。幸いにも、彼女の人徳故かトラブルになったことはないが。
「あ、鈴木さん……ですよね、この、こいつ、なんですけど。」
どうにかしてください。と、初対面にも関わらず恥ずかしげもなく壁に張り付く男性……推定雇い主を見つめた。
へにゃりと下げられた眉からは気の弱さが醸し出され、悪人ではなさそうに見える。あの友人の紹介であるから、それはあまり心配していないが。
彼女のしてやったりという顔が浮かぶ。きっと私がどうするかも分かっての行動だったのだろう。自宅に戻ることと友人の思惑にのることを天秤にかけ、私は後ろ手に扉を閉めた。

これは私と猫と同居人の、ハートフル?ストーリーである。

『子猫』

11/2/2023, 2:45:20 PM

「────おじいさんとおばあさんは末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。」

最後の一文を読み終えた初老の女は、捲れた布団を腹の上へと掛け直した。端のふやけた絵本をサイドチェストの上に置き、ひと仕事終えたと息をつく。

「どう?面白かったかしら。」
「ぜーんぜん。つまんない話!」
「ふふ、あなたには少し難しかったかもしれないわね。」
「はあ?!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ少年の隣で小さく欠伸をした女は、ゆるゆると微笑む。少年は毒気を抜かれて息を吐いた。女に何を言っても無駄だと分かっているからである。
「はぁ……明日も早いんだから早く寝なよ。今日また腰痛めたんでしょ。もう若くないんだからさ。」

口を噤んだ女は穏やかに自分の腹を撫でている。それは女が寝る前に必ずする仕草だったから、少年も黙って見守った。
「おやすみ、ゆう。」
「おやすみ。」

明かりを消し、瞳を閉じた女を見つめた少年は、徐ろにその腹に手を伸ばす。もちろん触れられるはずもないのだが、少年はこの動作をやめられなかった。漠然といつかそんな日が来るような気がしたのだ。
そんなことは、少なくとも女が死ぬまでは起こり得ないのだが。少年はあまりに幼く、ものの道理を知らなかった。


少年は女のことを気違いだと思っている。なぜなら、普通の人間は寝る前に声を出して本を読んだりしないし、薄っぺらいお腹に声をかけることもないからだ。日頃から女にくっついている少年は、彼女に「ゆう」という名前の知人が居ないことも知っていた。

少年は何もかも突き抜けてしまう手で、女の昔よりしわくちゃになった顔を撫でてやる。何故だか知らないが、彼にはこの女が慕わしく感じられる。何となく腹に手を伸ばしてみたくなるし、「ゆう」の漢字も知りたいと思う。
長く一緒にいたから、おかしいのがうつってしまったのかもしれない。

明日女が目を覚ました時、自分が見えるようになっていたらどうしよう。自己紹介をするべきだろうか?もし女が自分にずっと見られていたことを知ったら、なんと言うだろう。驚くだろうか。喜ぶだろうか。
少年はそんなことを考えて、女の隣で必要のない眠りをとる振りをした。

女が自分を見えるようになったら、今日の本の感想も話そう。同じ本ばかりで退屈だから、新しい本を読んでもらうのだ。

少年はまだ見ぬ明日に期待して、女の懐に顔を埋めた。


『眠りにつく前に』

11/2/2023, 9:55:16 AM

「なあ、ほんとに行くの?」
「お前な、何言ってんだよ今更?」
「いや……そもそもこんなとこ来たのが間違いだろ。やめようぜ。」
「ビビりめ……ま、お前はここで待っててくれればいいからさ。帰んなよ!」

俺はそう言って一人暗闇へと消えて行くお前を見ていた。それがお前との最後の会話になるなんて思いもしなかった。


次に会ったお前がこんな箱に詰められてるなんて、本当に思わなかったんだよ。
「兄さん……」
「徹……」
「徹くんはお兄ちゃん子だったものね……」
アイツの弟が棺にしがみついて泣いている。宥める大人をものともしない、見事な泣きっぷりだった。周囲の人間も彼の涙に感染した様に目頭を押さえる。
「徹くんも可哀想に……」
黒い服に身を包んだ母さんも、アイツの弟に同情的だった。俺は黙ってジャケットの裾を握る。

「本日はありがとうございました。」

現実味がないままに葬式が終わる。宗教的な問題か何かで火葬はしないらしい。棺が車の中へ運び込まれて行く……



ごめん、ごめんな。俺はビビりなんだ。俺の力ではどうしようもないものが恐ろしくて仕方ないんだ。
「兄さんはとても明るくて、優しくて……僕の自慢の兄でした。」
兄の魂はこれからも永遠に、この家を見守っていてくれると思います。
まだ若い弟の言葉に、親戚らしい周囲の人間が感心したように頷く。寒気がした。

ああ、お前の言った通りだったよ。

『なあ、俺死ぬかも。』
『はぁ?』
『うちの家系は代々男二人兄弟なんだよ。んで、二十代のうちに長男が死ぬ。』
『それは……遺伝病的な?』
『いや。少なくとも病死では無い。全員健康体だったと記録にあった。』
『記録?……どういうこと?』
『これは推測だが、と言っても、俺はかなり真実に近いと思ってるけど。うちの家系はな、代々長男を殺しているらしい。』
『……はあ?』

有り得ないと呆れる俺と、証拠があると譲らないお前。じゃあ見せてみろだなんて、言わなければよかったんだ。いや、俺も本家に、お前について行くべきだった。それなのに、あろうことか俺はあいつに見つかって逃げ帰って……

「園田さん。」
びくりと体が跳ねる。いつの間にか背後に回っていた弟が、俺の肩に手を添えている。
首筋に触れた指は、無機物のように冷たかった。
「て、徹……」
「今日は来てくださってありがとうございます。兄も喜びます。」
「あ、あぁ……」

首筋を撫でるようにして離れていく手に、ぞわりと鳥肌が立つ。
『園田さん』
あの夜の声と重なった。
『兄は永遠になるんです。』

なあ、アイツの死体をどうするんだよ。


『永遠に』

10/31/2023, 6:19:32 PM

連休直前の出勤日。予定通りに止まった電車に、香織はスマホのメモアプリをそそくさと閉じた。帰宅ラッシュの電車は満員で、スマホを出す余裕もなさそうだと地下鉄の窓を眺める。当然ながら、窓の外に広がるのは無機質な暗闇のみだ。

満員電車に犇めくスーツは、皆一様に手元のスマホに視線を落としていた。
人目を気にして執筆を躊躇う香織が阿呆らしく思えてしまうほど、彼らは個人として完結している。香織には羨ましいことだ。
窓に押しつけられた女が硝子越しにこちらを見ている。何をするでもなく脳内で独白する女は、人目にはどう映るのだろう。

草臥れたOLである香織に趣味は無い。世間話として振られれば「読書」と答えるが、精神的に忙しい日々の中で物語に触れる機会も減っていた。
その代わりと言っては何だが、香織は物語を書く。家族にも友人にも伝えたことはないが。
香織は小説家になりたいわけではない。小説を人に読ませたことさえなかった。ただ文章を書くことが好きで、何となく日常が息苦しくて。現実逃避の手段として、自分の頭とメモさえあればできてしまう小説を書いている、だけ。
香織は空っぽな人間である。



連勤明けの休日。ネット小説のサイトを覗いていた香織は、「初投稿でスタンププレゼント」の広告に目を止めた。可愛らしいキャラクターのスタンプが広告の横で踊っている。
どうやら今小説を投稿するとサイト内で使えるスタンプが無料で貰えるらしい。

香織はふむ、と考えた。アカウントは作成済みであるし、要件に評価の数は入っていないらしい。文字通り、投稿するだけでいいようだ。
香織は普段から小説を書いているし、投稿するだけなら無料だ。デメリットは何も無い。深く考えず「小説を投稿する」のバナーをタップした。

「あれ?」

ページを開き、必要事項を入力する。オリジナル?はい。AI?いいえ。単調な作業だ。問題はその後である。

香織はこれまで書いた小説を投稿欄に貼り付けようと、メモアプリを開いた。目ぼしいフォルダを開くが、何も無い。
もちろん言葉通りの意味では無い。ただ、中々上手く書けたと思っていた小説達が、いざ投稿しようとすると忽ち杜撰なものに見えた。
心情描写ばかりだし、句読点の位置が安定していない。気にも求めなかった誤字が山のように見つかる。

香織は出処の分からない焦燥に駆られて、比較的マシな小説を選んで推敲を重ねた。余計な文を消し、句読点を入れ、表現を直し……影も無くなった小説に再度目を通して、投稿欄に貼り付けた。
そういえば、小説の推敲なんてこれまでしたことがあっただろうか。ネット上の小説にダメ出しをしていた自分と、箇条書きのようだった推敲前の小説のようなものを思い出す。心臓に汗をかいたような心地だ。
結局香織は貼り付けた小説を更に一時間推敲し、やっとの思いで投稿ボタンを押した。

香織は初めて知ったが、この投稿サイトはリアルタイムで閲覧者数といいねをした人数が見られるらしい。
閲覧者が更新される度、香織は文字通りひっくり返った。そうでもしないと賃貸に有るまじき行動をしてしまいそうだった。
閲覧数が10、20と増える度焦りが募る。まだ一つもいいねがついていない。
一つ前の投稿にはもういいねがついているのに、どうして。タイトル?知名度?時間?

見ていられなくて一度電源を落とす。甘く見ていた。普段から書いているし、ユーザーの多いサイトだから、きっと10いいね程度ならすぐにつくだろうと高を括っていた。
私の小説は、面白くないらしい。
大切な芯がぽっきり折れてしまったようだ。自分の存在価値まですり減った気がして、膝を抱えた。


どれくらいそうしていたのか。パンパンになった目を開いて立ち上がる。外はすっかり暗くなって、貴重な休日の終わりを示していた。

宅配でも頼もうとスマホを引っ掴むと、画面がぱっと主張する。投稿サイトから通知が来ていた。少々尻込みしながらサイトを開けば、ホームに表示された小説には、一桁ではあるがいいねがついている。
複雑な気持ちでそれを眺めていると、更にもう一件の通知と吹き出しマーク。

『面白かったです!続きお待ちしてます!』

徐ろに表示された短いコメントを、暫く呆然と眺めた。
相変わらず閲覧数に対して少ないいいねの隣に、1の数字が並んでいる。0だったフォロワー欄が1人増えていた。この人だ。

感想と言うにはあまりにも端的なそれに、何故だか涙が零れた。
人生で感じたことのない感情と衝動に襲われる。カッと胸が熱くなる。私という人間が承認された気がした。

小説という私だけの世界。私の思想そのものを公に晒すこと、その苦痛と喜びを知ってしまった。
温い涙の感触は、この先も忘れないのだと思う。
その日、私の楽園は崩壊した。


『理想郷』
スランプ。

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