「忘れたくても忘れられない」
2本立った歯ブラシを、1本捨てる。
ピンクと白、ペアで買ったグラスは、
ピンクの方を棚の奥へと追いやる。
そうやって少しずつ少しずつ、
君の痕跡を消していく。
それでも消えない君の匂いが、
君との記憶を忘れさせてくれない。
たくさんのものを捨てたのに、
この部屋はいつまでも君を覚えている。
忘れたくても忘れられない
君との幸せな思い出。
目から止めどなく、涙が溢れ出る。
君がいないのに、
俺はこの世界を生きていかなくてはならない
「やわらかな光」
体育館倉庫の中で1人、弁当を食べる。
体育館の裏口の鍵が壊れていて、コツを掴めば開けられることに気づいたのは中学2年生の秋。それからはここで食事をとったり、隠れたりしている。
さっき殴られたところが痛い。服で隠れて見えないところばかりを殴られる。服を脱げば、僕の身体は痣まみれだ。
弁当に手をつけだしだ時、
ガチャ、ガチャガチャガチャ
と、裏口を誰かが開けようとする音がした。
驚いて、しばらく思考停止した後、慌てて隠れ場所を探した。だが、そんな努力は虚しく、扉が開いてしまった。
静かに息を殺して座っていた。僕は、さっきまで僕を殴っていた彼らが来たのだと思った。こちらに近づいてくる足音が聞こえ、僕の隣で止まった。
恐る恐るそちらに顔を向けると同時に、その人は僕の隣にストンと座った。
長い黒髪に、透き通るような肌、細い腕に、長いまつ毛。僕を虐めている人間でないことは明らかだった。
「君が体育館の裏口に入っていくの、さっき2階から見てたの。追いかけてきちゃった。」
へへっと彼女は照れくさそうに笑う。
僕は安心と戸惑いが交錯して停止していた。
「ねぇ、どうしてこんなところで食べてるの?」
彼女は追い討ちをかけるように質問攻めをする。
「ひとりが良くて。」
僕はありきたりな言い訳しか思いつかなかった。
「…ううん、本当は知ってるの。」
「え」
彼女が思いがけないことを言い出したので、驚いて声が漏れた。
「ずっと前から知っていたの。助けられなくて、ごめんなさい。」
僕は何も答えられなかった。知っていたなら助けてほしかったという気持ちが、まず押し寄せて来てしまったからだ。しかし、よく考えたら分かる。こんなに華奢な彼女に、何ができただろうか。傍観者なんて山ほど居る。恨む気持ちなど生まれなかった。
「いいよ。」
僕は言い放ってその場を離れようとする。
彼女は、そんな僕の手を握った。
「待って。そんな悲しそうな顔をしないで。」
悲しそうな顔などしていない。
「自分を大切にして。」
彼女は立ち上がって両手で僕の両頬を覆った。
僕は目のやり場に困って俯こうとしたが、彼女の手によって無理矢理上を向かせられる。
「私はもう、あなたを傍観したりしない。これからは、私があなたを助けるから。」
彼女は僕の目を真っ直ぐ見据えていた。
その言葉は僕の心に真っ直ぐ届いて、涙が溢れた。
その日から、彼女は僕にとっての光となった。
「鋭い眼差し」
彼はいつも、クラスの中心にいる。
明るくて、運動神経が良くて、顔も良い。クラスのムードメーカー的存在だ。
しかし、私には見える。
いつも彼の背後で、彼に鋭い眼差しを向けるその目が。
私はある日、放課後の教室で偶然彼と2人きりになった。たわいもない会話をして、彼が帰ろうとした時、「あの」と、彼を引き止めてしまった。
それは、彼が大丈夫なのか純粋に心配だったからだ。
「信じてもらえないかもしれないけど」と続けて、彼の背後に女の子の霊が着いていることを話す。
それを聞いた彼は、全く驚かなかった。
まるで知っているかのように、「あぁ」とだけ答えて行ってしまった。
私は、嘘だと思われたのか、バカバカしいと思われたのか、意味がわからなかった。なんだか逆に恥ずかしくなって、自分がいたたまれなくなった。
時々いる。俺の後ろに着いているこの女が見える人間が。今日もこの女は、俺の事を鋭い眼差しで刺してくる。
あれは小学3年生の時だった。俺はいじめをした。
きっかけは些細なこと。でも教室で彼女の存在は異物となり、いつしかみんなが避けるようになった。
俺は彼女を虐めても良い存在というふうに認識した。
クラスでの虐めは次第にエスカレートした。
最期はクラスメイトに煽られて自殺した。彼女に窓から飛び下りることを強要した。でも、誰も本当にやるとは思っていなかった。彼女は泣きながら窓枠に足をかけて、するりと窓を抜け、グラウンドに落ちた。
酷い音がした。俺は窓から身を乗り出して、下を見た。そこには、ぐちゃぐちゃになった彼女がいた。気持ち悪いものが喉奥から込み上げ、トイレへ駆け込む。嗚咽を漏らし、吐いた。
口を拭って、顔を上げると鏡が目に入る。俺の後ろに彼女が立っていた。
今日も彼女は俺を睨みつけてくる。
俺は一生この業を背負っていくのだ。
「高く高く」
放課後、職員室に鍵を返しにきた。鍵をフックにかけて、踵を返そうとした。瞬間、視界の端に『屋上』という文字が見えた。
魔が差した。
階段を3階分上がって、上がったことの無いあと1階分の階段を上る。1つのドアがある。『屋上』と書かれた札のついた鍵を、鍵穴に挿す。左に回すと、ガチャ。開いた。初めて来る屋上に恐る恐る足を進めて、何となく誰もいないことを確認した。ふぅ。と息を吐く。
フェンスに近づいて中庭を見下ろす。4階建ての屋上から見る中庭は意外と小さくて、こんなものだったかと思う。おもむろに靴を脱いで、鍵も床に置く。フェンスを越えるのが案外難しくて手こずってしまった。フェンスの外側、コンクリートの上に立つ。フェンスに腕をかけて、もう一度中庭を見下ろす。
誰もいない。恐怖はない。
手を離しかけたその時、頭上から何かが降ってきた。紙飛行機だった。それは何処からかふわふわと飛んできて、私の頭を掠めて、フェンスの内側に落ちた。私はその場にしゃがんで、フェンスの隙間から手を伸ばす。
あと少しのところで、屋上のドアが派手な音を立てて勢いよく開いた。驚いてそちらを見ると、そこにはこの学校の男子生徒が立っていた。
彼は走ってきたようで、はぁはぁと息を切らしながら屋上を見渡していた。その視線が私で止まると、ズカズカとこちらに歩いてきて、私の代わりに紙飛行機を拾い上げた。乱暴に開いて私の顔の前に差し出す。
『しぬな!』
そう書いてあった。よく見ると数学のテストの裏で、急いで書いたのか字が乱れていた。
私が、「なに」というと、彼は途端に顔色を変えて慌てている様子だった。これで止められると思っていたのだろう。私にかける言葉がないようで、わたわたと状況説明から始めた。
「と、隣の棟の3階!…の俺の教室から、俺帰るとこで、外見たら屋上に人いて、今にも飛びそうだから慌てて!」
彼はまとまらない日本語を連ね始めた。
「俺すぐ行こうとしたんだけど、ダッシュしても間に合わねぇって思って、紙飛行機なら最短距離で届くかなぁって」
あははと彼は笑う。いや、笑いかけられても困る。
「…どうして止めるの」
私は彼に問いかける。
「どうしてって…」
そこで彼は黙った。少しの間が空いて、
「…なぁ、どうしたら死なないでくれる?」
彼は突然真剣な表情になった。その表情に、少しびくりとする。
「…わかった!」
彼は急に大声を出して、フェンスの上から私に手を伸ばした。脇にズボっと手を入れられ、苛立ちと恥ずかしさで叫びそうになった。しかし彼は私を持ち上げ、いとも簡単にフェンスの内側に入れたので、私はその力の強さに驚いて声が出なかった。
「なぁ、俺と紙飛行機!勝負しようぜ!」
「はぁ?」何を言っているんだこのバカは。
どこからか紙をもう1枚取り出した彼は、おり慣れているようでさっさと紙飛行機を作り上げた。それを私に渡す。
私がおもむろに受け取ると、
「じゃあ行くぞー!せーのっ」強制的に始まって、私は体制不十分のまま飛ばした。それは、やはりすぐに落ちていく。
それに比べて、彼の飛ばした紙飛行機は、高く高く、太陽に向かって飛んでいった。
彼はそれを見ながら、私の肩を掴んで言った。
「やぁーい、負けた負けた!負けたから何でも言う事きけよー!」
私はまんまと煽られて、腹を立てる。
「何よ。聞く義理なんてないわ。だいたい、私はあなたを知らない。」
「俺は知ってる。」食い気味で答えるから驚いて見ると、真剣な面持ちで、彼は私を真っ直ぐ見ていた。
「好きです。付き合ってください。」
耳を赤くして彼は言った。
私は急すぎて何が何だか分からなかったけど、だんだんと顔が熱くなっていったのが分かった。
ここから始まり、彼は何度も私の自殺を妨害した。
それと同時に、私の隣で、私の人生を価値あるものに変えていった。
「子供のように」
午前1時
ようやく仕事を終えて帰路に着く。
辺りは夜の闇に閉ざされて、街灯の明かりのみを頼りに進む。
学生時代、あれほど夢見ていたデザイナー。
華やかな世界に憧れて努力した。まあまあな大手に受かって、晴れて広告業界に就職。俺には輝かしい未来が待っている!と信じて、押し付けられる雑用も、身に余る業務にも全力で取り組み、忙殺される日々を今日まで耐えてきた。でもそんな努力が報われる日は、ついに来なかった。
ポツポツと雨が降ってきた。雨足は次第に強くなる。俺は鞄を漁り、折り畳み傘を出そうとした手を止める。雨が、頬ばかりを濡らす。これは雨なのだ。自分に言い聞かせる。だって、そうでなければ、24にもなって大の男が仕事に耐えきれず涙を流すなど、
「みっともねぇなぁ…」掠れた声が口からこぼれる。
同時に心臓がぎゅうっとなって、目元が熱くなる。
辺りを見渡す。ここには、暗闇しかない。今まで押し殺していた感情が、溢れ出るのがわかった。
もうとっくに限界だった。
俺は無意識のうちに笑っていた。その汚い笑い声が、辺りに響き渡る。キーンという耳鳴りがして、自分の声に靄がかかった。
俺はただ、おもしろくっておもしろくって、永遠と思えるほど長い間、笑っていた。狂ったように、壊れたように。何かがすごくバカバカしくて、滑稽で、つらくて、苦しくて、でも逃げ場なんてどこにもなくて。
もう顔を濡らすものが、涙なのか雨なのか、はたまた涎なのか鼻水なのか、もうなんなのかも分からない。両手を広げて、雨を全身に浴びて、意味も無くぐるぐると回った。はしたなく、穢らわしく。もう全てがどうでもよかった。ただ、楽になりたかった。
子供の頃、大人になったら空を飛べると思っていた。当然、そんなことは叶わ無かった。
でも不思議と、今なら叶う気がした。
俺の身体はふわりと飛んで、暗闇の中、重力に従って堕ちていく。硬いものに強くぶつかった瞬間、身体の全ての重みが消えた。
ふわふわと空中を好き勝手に飛び回る。
無邪気に、子供のように。
やっと、自由になれた。