他人の情動がどの位置にあるのかを把握した上で、自分の重心を乱しきらないこと。悲しんで欲しくないというのは優しさというよりも支配欲だ。相手の感傷に巻き込まれたくないという心だ。寄り添うとは巻き込まれ同化することではない。相手に悲しむ権利はあるはずなのだから。相手の悲しみを奪うこともなく、自分も悲しくなったのなら、悲しいですと言えばよい。
運命論を信じざるを得ない
ホモ・サピエンスの無力さを前に
資本主義社会において、働かない=悪、生産性がない=存在価値がない、と、怠けることの罪化が定着した。
社会が線を引きたがるもの。ビョーキと怠惰。しかし現実は、実際に生きている人間の感覚ってそんな単純な二項じゃない。分類というのは常に、誰かの痛みを切り捨てた上で成立するものだ。起き上がれない朝が、それが鬱のせいなのか、単に気力がないのか、私自身にさえに区別がつかない。起き上がれない朝に「これは病気なのか怠惰なのか」と問うことほど、残酷な内省はない。その問いは、苦しみの原因を見極めるために立ち上がるものじゃなく「自分が責められるに値するかどうか」を判断しようと問いただすことに近い。生きていて一度は言われる。甘えだどうのこうのって。そうだ、「生きてるだけで偉い」わけがないんだよ。「特に偉くはないけど生きてるよね」。それが私みたいな人間にかけるべき正しい言葉だ。退廃なんて、虚無なんて、地べたを這って生きることの摩擦なんて、とっくに慣れてるだろ。もう。そういう人間の存在を私は認識する。あ、こんにちは。偉くないひと。
怖いねー。失望の目。進捗を問いかけるその言葉。それでも動かないね、体が。生きてんだよーどうしよもなく生きてる。呼吸をして、心臓が動いて、ここにいる。ちゃんとそれはわかってる。不眠の朝方、散歩行こう。誰もいないから。
現実は雑で理不尽なことの方が多いし人は皆自己中心的
理想と現実を分離し、戦略的に妥協して、社会に揉まれて知恵を覚えろ
他者は予測不能なことを前提に動かなければならない
人は基本的に私を理解していないし理想通りにはならないことを認めなければならない
しかし、これは絶望の宣告ではなく自由への宣告だ
理不尽・利己性・誤解を前提に置くことで、かえって私は自由に動ける
相手が完璧でも善意でもないと知っているからこそ、期待で裏切られる苦しみを減らせる
前提がどだいから異なることを知らない?色眼鏡とか憶測とか先入観とか固定観念が飛び交い、具体性と根拠と論法を欠き、そのことに誰かは気が付かない。その誰かはあなたかもしれないし私かもしれない。考えれば考えるほどあなたがわからなくなってゆく。考えれば考えるほど考えていないような気分になってゆく。アポステリオリな言葉を使って、そこにいる誰かは他の誰かを下に見る。異物に名前をつけ排除し、安心したいから。相対的でしかない価値で、自分の価値で、相手を裁いていく。私はそれを見て落下を感じ、浮遊を感じ、風を感じる。2人の人間がお互いを見下すとき、下へ下へと伸びるあまり2人はどこまでも落下していく。