「すみません、風邪をひいたみたいなので今日はお休みさせてください。」
貴子は電話の向こうの相手に頭を下げながら、申し訳なさそうに言った。
「はーい、部長に伝えておきますね。お大事になさってください。」
電話の向こうでは、早苗ののんびりした声がする。
聡い早苗のことである。貴子が仮病をつかっている事に気づいているのだろう。それをあえて気づかないふりをしている。そんな早苗の優しさが伝わった。
今日は打ち合わせもないし、急ぎの書類は昨日仕上げて部長に提出してきた。「昨日の自分を褒めてあげたい」と貴子は思った。
数年前に猛威を奮った感染症は『休みを取りやすくする』という恩恵をもたらした。『風邪如きで休むな』という昭和の体質を持っていた貴子の会社ですら、休む事へのハードルは驚くほど低くなった。
いつもよりゆっくりコーヒーを淹れ、丁寧に化粧をする。
家を出る頃にはすっかり陽は高くなっていた。駅までの道もいつもよりやさしい空気につつまれている。
いつもと反対の電車に乗る。ベビーカーを押したママさんや私服の若者、仕事中の人もいるだろうがみんな席に座って思い思いの時間を過ごす。貴子もカバンから読みかけの本を出す。
終点の駅で降り、向かった先は馴染みの温泉旅館だ。日帰り入浴を楽しみにやってきた。
ゆっくりと湯に浸かりながら頭の中を空っぽにする。最近忙しくて余裕がなかった。今日休まなければ心理的に限界を迎えそうだ。それは貴子が長年の会社員生活で身につけた感であった。若干の罪悪感を覚えながら、貴子は誰にともなく呟いた。
「心の風邪を治しにきました」
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お題:風邪
こうさぎのフワリとこぎつねのフウタは大の仲良し。
今日も風の丘で遊びます。
「何して遊ぶ?」とフワリ。
「かくれんぼしよう!」とフウタ。
フワリはちょっと不満そう。
それでもフウタとかくれんぼ。
まずは、フウタが隠れます。
フウタの黄金色の毛並は秋の森に溶け込んだ。
フワリは10まで数えてから駆け出した。
フワリはフウタを探す。秋の色に変わった草原を。
フワリはフウタを探す。大木にあるウロの中。
フワリはフウタを探す。風が集めた落ち葉の山を。
やっとフウタを見つけて、フワリはちょっとほっとする。
次はフワリが隠れます。
フワリの真白な毛並は秋の森では目立ちます。
フウタは10まで数えて駆け出した。
「フワリみーつけた」
すぐに見つかったフワリはちょっと不満そう。
「雪が積もったら、またかくれんぼしようね」
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お題:雪を待つ
遥か昔、灯りは愛でした。
長い時間をかけて火を起こし、愛する人に温かい食事を用意しました。
愛する人を寒さから守るため、永い夜も灯りの側で見守りました。
旅人は灯りを頼りに愛する人の元へ向かいました。
大切に扱われた灯りは暖かくやさしく私たちを包み込みました。
今では灯りを見る事がほとんどなくなりました。
スイッチひとつで電気がつき、お店で食べ物が提供されます。一年を通して快適な室内で生活します。寝ても起きても変わりません。
誰の手のひらの中で完璧なナビを持ち、迷う事なく目的地へ辿り着けます。
私たちは灯りを探さなくてはならなくなりました。
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お題:イルミネーション
「パーマかけたんだね。すごく似合ってるよ」
という茉莉奈の問いかけに
「ありがとう」
と笑顔を見せる彩を見て茉莉奈はほっとした。
昼過ぎに茉莉奈が訪れた時、彩は目の下に隈をつくり部屋着姿で佇んでいた。部屋はカーテンも締め切ったまま雑然としていた。唯一ベビーベッドの周りだけはきれいに保たれていた。
茉莉奈が口を開くと「今寝たばかりなの」と怒ったように一言放った。
それで茉莉奈は自分の口に人差し指をあてたまま、彩に言った。「わかった。私が見ているから彩は着替えて出かける準備して」何を着ればいいかわからないという彩とクローゼットに行き、白いセーターと茶色のサテンのスカートを選ぶ。去年会った時に彩が着ていてとてもかわいらしいと思った組合せだ。
支度を整えた彩に「これ秋紀から。自由が丘の喫茶店に行ってほしいって」と言って茉莉奈は白い封筒を渡す。秋紀は彩の夫で今、単身赴任をしている。茉莉奈と彩と秋紀は皆同じ大学のサークルだった。
今日はどうしても彩に頼みがあるというので、茉莉奈に子どもを預けて出かける事になった。
彩は産まれたばかりの拓馬と離れるのが怖かった。自分がいない間にないか起こるんじゃないかと。ただ、「彩にしかたのめない」と言われ、「茉莉奈に子どもの面倒は頼んだから」と言われてしまうと何も言い返せなかった。
自由が丘の喫茶店で席に座り、封筒を開ける。そこには秋紀の几帳面な字が並んでいる。
ひとりで拓馬の面倒を見させて申し訳ないだとか、いつもありがとうだとか、よくある文章なのに泣けてきた。そして、美容院の予約時間が書いてある。封筒にはお金も入っていて、今日は自分の為に時間とお金を使って欲しい、そう書いてあった。
彩は茉莉奈がお湯を注ぐティーポットを見ながら呟いた。
「なんでうまくできないんだろう」
窓から差し込む柔らかい西陽がティーポットに反射している。ティーポットの中では赤い茶葉がゆらゆらと心地よさそうに揺れている。茶葉につられるように身体を揺らすと腕の中の拓馬も心地良さそうにしている。
茉莉奈はティーポットのお茶をカップに注ぎながら言った。
「彩がこのティーポットで拓馬がカップ。ティーポットが空っぽなのに一生懸命カップを満たそうとしていたんだね。本当はティーポットにお湯を入れないといけないのにね。
でもね、拓馬を見て。彩が帰ってきて本当に安心してるし、彩に抱かれてとても幸せそう。拓馬のカップは愛で満たされてると思うよ。だから、うまく言ってるよ」
部屋中にローズヒップのやさしい香りが漂う。
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お題:愛を注いで
小学生の頃はいつも自分の事ばかり考えていた。自分が何が好きなのか、何が心地良いのか。誰と一緒にいると楽しいのか。
だから、他の人が自分を変わっていると思っていることも知らなかったし、自分の一言で誰かが傷ついていた事も知らなかった。言ってくれたら良かったのに。そしたら,直せたかもしれないのに。だけど、周りのみんなも幼かったからきちんと言葉にせず、離れていった。気がついた時には私の周りに友だちはいなかった。
中学生になる時に、これからはみんなに合わせようと決めた。周りの事を気にし出すと、人の視線が気になった。人が自分の事をどう見ているのか、それが怖かった。
自分がどのグループに属するのか、どこにいれば変に思われないか。目立ち過ぎず、かといって全く知られない存在ではない。
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お題:心と心