「すみません、風邪をひいたみたいなので今日はお休みさせてください。」
貴子は電話の向こうの相手に頭を下げながら、申し訳なさそうに言った。
「はーい、部長に伝えておきますね。お大事になさってください。」
電話の向こうでは、早苗ののんびりした声がする。
聡い早苗のことである。貴子が仮病をつかっている事に気づいているのだろう。それをあえて気づかないふりをしている。そんな早苗の優しさが伝わった。
今日は打ち合わせもないし、急ぎの書類は昨日仕上げて部長に提出してきた。「昨日の自分を褒めてあげたい」と貴子は思った。
数年前に猛威を奮った感染症は『休みを取りやすくする』という恩恵をもたらした。『風邪如きで休むな』という昭和の体質を持っていた貴子の会社ですら、休む事へのハードルは驚くほど低くなった。
いつもよりゆっくりコーヒーを淹れ、丁寧に化粧をする。
家を出る頃にはすっかり陽は高くなっていた。駅までの道もいつもよりやさしい空気につつまれている。
いつもと反対の電車に乗る。ベビーカーを押したママさんや私服の若者、仕事中の人もいるだろうがみんな席に座って思い思いの時間を過ごす。貴子もカバンから読みかけの本を出す。
終点の駅で降り、向かった先は馴染みの温泉旅館だ。日帰り入浴を楽しみにやってきた。
ゆっくりと湯に浸かりながら頭の中を空っぽにする。最近忙しくて余裕がなかった。今日休まなければ心理的に限界を迎えそうだ。それは貴子が長年の会社員生活で身につけた感であった。若干の罪悪感を覚えながら、貴子は誰にともなく呟いた。
「心の風邪を治しにきました」
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お題:風邪
12/17/2024, 10:05:08 AM