わたあめ

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10/29/2024, 5:29:08 PM

 私は政治家の秘書をしている。
 先生の横領の罪を全て被れば、家族は一生安泰に暮らせると約束された。私が口をつぐんでさえいれば、全てが丸く収まる。

 「これでおしまいだ」
そう思って足を欄干にかけた。しかし、どうしても最後の一歩が踏み出せない。生きる事も死ぬ事もできない。そんな自分にどうしようもなく腹が立つ。
 そんな時、後ろから声をかけられた。振り向くと身なりの良い老人が立っていた。

 老人は「コーヒーでもどうですか」と言って、缶コーヒーを差し出してきた。
 老人の場違いな物言いに呆気に取られながら、促されるままに河原のベンチまでやってきた。老人はそこに腰をおろす。私もつられるようにベンチに座った。
「どうぞ」と言われて缶コーヒーに口をつける。ずっと緊張していたからなのだろうか全く味がしない。
老人は穏やかな声で話し出した。

「わしも昔、あの欄干に足をかけた事があったんですよ。
やっていた会社がうまくいかなくてね、借金で首が回らなくなったんですよ。家族も離れていってねぇ。もうどうしようもなく自暴自棄になっていたんですよ。
だから、あなたに声をかけてしまったんですね」

 老人は仕立ての良いスーツを着ている。そんな過去があった事など今の老人からは想像もできない。

「その時、私も今のあなたと同じ様に声をかけられましてね。    
これをもらったんです」

そう言いながら老人が内ポケットから取り出したものは古びた銀色の懐中時計だった。文字盤には時間の他に月と日にちの表示があった。特別な装飾はなく至ってシンプルなものだった。
 老人の説明によると、やりなおしたい時に時計の時間を合わせるとその時に戻れるのだと言う。

「いつでもやり直せると思ったら、もうひと踏ん張りしてみようと思えましてね。日雇い労働からやり直して、借金を返してなんとか会社を再建したんですよ。長い年月がかかりましたが、家族ともやり直す事ができましたよ。
 わしももう歳ですし、これから使う事もないと思います。なので、あなたに差し上げます」

そう言って懐中時計を私に渡して立ち上がった。
「これは1回しか使えないらしいです。だから、実際に効果があるかはわしにもわからないんですよ」


 老人が立ち去った後も私はベンチに座ったまま懐中時計を見つめていた。いったい何時に戻ればいいんだろう。横領の罪を被るように言われた時。いや、その時では遅いだろう。先生が横領を始めた時、先生の秘書になった時、政治家を目指した時。どんなに過去に戻っても何時が正解なのか分からなかった。
 空が白み始めた頃、私は妻に電話をして全てを打ち明けた。これまでの事、そしてこれからの事を。妻は何も言わずに聞いてくれた。電話を切った後、私は警察署へと向かった。


 数十年の月日が流れた。
 ひとりの少年が橋の欄干に足をかけている。「少し話をしないかい?」私はとっさに少年に声を掛けた。
 あの日の老人と同じように河原のベンチへ少年を誘った。少年は学校でいじめに遭っていること、親には心配かけられないと言う事をボソボソと話し出した。途中から嗚咽交じりに言葉を絞り出していた。
 少年が少し落ち着いたのを見計らって、私はいつも持ち歩いている古びた銀色の懐中時計を取り出して、少年に渡した。
「私はもう使う事はないと思うから、君にあげるよ。ただこれは一回しか使えないらしい。だから、私も実際に効果があるかわからないんだけどね」


〈天界にて〉
ディオニュソス(酒の神):
「ねぇ、クロノス。いつになったら懐中時計が戻ってくるの?お酒飲みすぎちゃって気持ち悪いから、お酒飲む前の時間に戻して欲しいんだけどぉ」

クロノス(時間の神):
「いつになるんだろうね。私だって知らなかったよ。人間がそんなに時間を戻す事に躊躇するなんて」

ディオニュソス:
「なんで人間に懐中時計を渡したんだい?」

クロノス:
「困ってたところを助けてもらったからさ、何かお礼でもと思ってしまったんだよ。
そもそも使わないんだったら、渡さなきゃよかったよ。
ああ、人間に懐中時計を渡す前に時間を戻したい」

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お題:もうひとつの物語
1577文字

10/28/2024, 11:06:52 AM

 布団の中で懐中電灯の灯りを頼りに夢中になって読んだ。夜中に起きていると「早く寝なさい」と両親に怒られるから。続きが気になって、ページをめくる手が止まらない。
 「後1章だけ」「ここまで読んだら寝よう」幾度となく破られる自分との約束。
 「明日の朝、起きられなくなるな」「授業中眠くなっちゃわないかな」心のどこかでちりりとなる警報音を無視して読み進めた幼い日の私。

 「お風呂に入って寝なさい」と言う母の声も届かず、活字に溺れる娘。

 仕方ないね。『ハリー・ポッター』だもん。
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お題:暗がりの中で

10/28/2024, 4:51:57 AM

 貴子は3人の兄の次に産まれた初めての女の子だった。貴子の母は待ち望んでいた娘だったこともあり、末っ子だったこともあり貴子をとてもかわいがってくれた。いつもフリルのついたのワンピースや女の子らしいスカートを与え、長い髪の毛をきれいに整えていた。誕生日やクリスマスのプレゼントにはおままごとの道具やぬいぐるみなどを与えていた。しかし、貴子自身は3人の兄たちについて秘密基地を作ったり泥んこになって遊ぶ方が楽しかった。着る服だって動きやすい兄たちのお下がりで充分だった。
 歳を追うごとに貴子はおてんばになり、幼稚園から毎日汚れて帰ってくるようになった。そんな貴子に母も無理にワンピースやスカートを着せることは無くなった。
 ただ幼いなりに母の想いは感じてはいたので、たまに母と2人で出かける時は母の望む服を着てかわいらしい女の子になるのだった。
 そんなお出かけの日には、母は大層機嫌が良く途中で喫茶店に寄ってケーキやプリンを食べさせてくれた。そして、貴子の向かいに座り紅茶を飲みながら「貴ちゃん、かわいいね。お姫様みたい」と言うのだった。貴子は口の中のケーキの甘さと母の優しさでふわふわした気持ちになったものだ。

 結局、貴子に王子様が迎えにきてくれることもなかったし、ドレスを着る事もなかった。『良妻賢母』が良しとされる時代に貴子は自分の足で歩む人生を選んだ。
 
「お母さんの望む娘になれなくてごめんね」と母に言ったことがあった。
「そんな事ないよ。貴ちゃんはいつでもかわいい娘だよ。私はね、私のしてもらいたかった事を貴ちゃんにしてただけだよ。お母さんの時代は貧しかったから」
その時の母も貴子の向かいに座り、紅茶を飲んでいた。

 紅茶の香りは母と2人で過ごした幸せな時間と母の愛情を思い出させてくれるのだ。

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お題:紅茶の香り

10/26/2024, 10:07:17 PM

みき「きいて〜。レンくん、ウチのこと好きと思う」
はるな「ええやん。なんで?」
みき「だって毎日『かわいい』って言ってくれるの」
はるな「えー、最高じゃん。ウチはマサトに『やさしいね』って言われるよ」
さや「んー、『やさしい』は好きなの〜?」
はるな「じゃあ、お家に遊びに誘われた!」
みき「うわ〜、それは好きっしょ」
さや「ウチは、ナオキに『好き』って言われた」
はるな「それガチのやつじゃん」
みき「ヤバいね」
ゆめの「ウチもナオキに『好き』って言われたんだけど」

ひだまり幼稚園の砂場にて。まだまだ平和な日が続きそうです。
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お題:愛言葉

10/26/2024, 2:47:52 AM


「陽当たりがよくて良いお部屋だね」
貴子は昭子の新居に入って一言目にそう言った。部屋は飾り気がなく殺風景な感じがした。昭子が前に暮らしていた家はもっと広くて庭もあり華やかだった。

「特等席に座っていいよ」
そういって貴子をロッキングチェアに座らせる。ロッキングチェアは皮張りのシートの上に大判のクッションが置かれたもので、座ると身体がすっぽりと包み込まれるようだ。同じ素材のオットマンもあり、それに足を乗せるとうたた寝するのに最適な体勢になる。ロッキングチェアの斜め前に置かれた観葉植物が窓から差し込む真夏の陽射しを遮ってくれる。殺風景だと思っていた部屋が一瞬にして居心地のいい部屋に変わった。

昭子がコーヒーを運んできてくれたので、オットマンから足を下ろし身体を起こす。昭子はサイドテーブルにカップをふたつおき、自身はオットマンに座る。
「良い椅子でしょ。ここで本を読んだりボーッとしてんの。余生って感じでしょ?」
サイドテーブルにコーヒーを置きながら、昭子は朗らかに語る。

「高校の時、『老後はみんなで一緒に住もうね』とか言ってたよね」ふと思い出話を始める。
貴子と昭子は高校の合唱部で仲良くなった。他にも合唱部には3人いて年に一度くらいみんなで集まっている。その中でも貴子は昭子とウマがあった。

昨年の冬に昭子は夫を亡くしている。お葬式で会った時の昭子はかなり落ち込んでいたし、その後しばらく経って前の家にお邪魔した時も疲れている様子だった。「老けたな」と思った。
今日の昭子は肌の血色も良く、雰囲気が少しだけ高校生に戻った様だ。正直にその感想を伝えると、自分の好きな事を思い出したのだと昭子は言った。
「わざと迷子になるの。子どもの頃、好きだったんだよね。わざと知らない道とか通って『家に帰れなかったらどうしよう』って思いながら歩くの。それで知ってる道にでるとすごく安心するの。途中で素敵なカフェだとか美容室とか見かけるんだ。でね、また行ってみようと思うんだけど、なかなか辿り着けないの」

貴子は一度も結婚せずにここまできた。好きな事をして生きてきたと思っていたけど、本当に好きなものだったか考え直した。自分が好きと公言しているものはどこかしら世間の目を気にしていたのではないか。
貴子はお芝居が好きだった。いつか脚本を書いてみたいと思っていた。すっかり忘れていたそんな事を貴子は思い出していた。

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お題:友達
1049文字
昭子の引越しの様子は10月17日に投稿しています。

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