お題:刹那
「善悪は社会のルールであって、人間の根本ではないんじゃないかな」
三つの本棚、三つの椅子、一つのテーブル。窓の無い部屋はいつも明かりがついており、そこに少年一人と少女一人がいる。現在少年と少女はこの部屋に詰めて任された仕事をしている。少年と少女は手足には繋がる先のない紐か枷を付けているが、それを延長し、自身の首に掛けた細縄に繋いでいる。
「それがどうかしたの」
少女は声にも顔にも表情無く聞く。
「いや、何となくそう思って…善悪ってなんかいやだなぁって」
静かなこの部屋には物音や声はよく響く。やや暫く音が止む。
「それが集団の現状で一番合理的だからルールになる。暇だと思うなら仕事して」
少女が語ると同時に物音は再開する。少年は呻く。
「ここに詰め始めてから結構経ってない?早く帰りたいなぁ…」
「まだ一割前後しか終わってないから駄目」
少女の返しに少年は大いに落胆した。
「あ゙ぁーっもう駄目だぁ、お終いだあ…帰る頃にはジジババになるぅ…忘れ去られしものになるぅ…」
「ならん。あとジジババは別に忘れ去られしものではない」
少年はまたも呻き、テーブルに突っ伏す。
「お外で遊びたーい…砂場遊びしたーい木登りしたーい山行きたーい」
「遊べる体がないな」
「そうだけど…ていうかその言い方なんかやだな…なんかこう」
「他意はないぞ思春期」
少女は少年が言い切る前に切り捨てた。少年はお前もだろうというように少女を軽く睨む。
「お前はすぐ高所に行くけど、そう言えば昔からよく言うな、馬鹿と煙は高いところが好きって」
「流石にひどいよ」
少年は毒舌に傷ついたようにした。
「僕は外にいると活き活きするんだよ。外で動き回るのが生き甲斐なんだよ。飼い殺しはやだよー」
少年は手足をばたつかせ訴えた。部屋に詰めてから何時間か何日か、はたまた何年かもわからないことからの不満を発する。
「やることほっぽり出せないし、外で野放図にしすぎると危ない。それにそもそも動き回れる身でもないよ」
少年は極めて不服そうに口を噤む。暫く少女の作業音だけが響く。少年が突っ伏した状態から起き上がり、椅子の背に凭れるような姿勢になる。
「君は砂に埋もれたよ、僕は知らない海辺で捨て置きだ。死体は乾かないなら邪魔だから」
少女は不満げにする。
「急に嫌味?でも私が埋もれたのは砂じゃないんだけど」
「詩的な表現だよ」
少女の眉間に軽くシワが寄り、ため息を吐いた。
「表現だとしても、そう思うってことはお前がそうなりたかったんじゃないの」
不機嫌な声色で少女が問う。少年は座り姿勢を戻す。
「えーんひどい、図星だけど」
「やっぱり」
少年の間延びした棒読みに少女はジト目になった。
「誰にも覚えられてないって寂しいなぁ」
「餌になるよりマシじゃないの」
少年はやや俯く。
「人に覚えられてないのに意識ははっきり残ってるのって、なんかキツいなぁ」
暫く沈黙が降りる。
「死んでも意識があるなら死ぬってなんなんだろう」
少女が疑問を口にする。
「一部のつながりが遮断されること?」
一人ぼっち、と少年は呟く。
少女はなんとも言えないという返事を返した。果たして完全に遮断されたと言えるだろうかと。少女は疑問を続けた。
「自主性が生きるってことなら私達はまだ生きてるの?」
少女は更に続けた。
「存在によく言う死ってあるの?死の状態そのものに自主の意味があるなら無いんじゃないの?」
少年もまたなんとも言えない。
「じゃあ僕が生きる意味ってなんだろ」
少年と少女は、一度、数多ある磔刑に一つとして掲げられた。罪科ありし者として、当然の帰結というものを辿っていた。
「生きるのに明確にわかる意味って必要?」
「そうじゃなくて、僕が納得する落とし所だよ」
「同じ意味じゃないの」
少年は少女の返しに口を少し尖らせ、やや経ってからなにか思い出したように緩く笑う。
「僕は昔光石の洞窟に入ったことがあるんだよ。すごくキラキラしてたんだ」
「ふぅん」
「僕もあの石みたいになりたいなって」
「お前は石にはなれないけど」
少年は嗤う。
「不幸は歌える。お前も」
「歌わなくなるようにこの仕事してるんだけど。それに自虐は何にもならないぞ。私もお前も同じだし。そもその光石に失礼では?」
少年は再度椅子に凭れる。
「あんまりすぐに捨てなくても、私とここに詰められてるっていうのにも意味はあるんじゃないの。私と居るのが嫌でも」
「嫌じゃないけど」
「あそう」
やや長く部屋が静まり返る。
「なんか急に考えるの面倒くさくなってきた」
少年の発言に少女は思い付きを返す。
「じゃあやめろ。その方が良い。利口にしてれば死にはしない」
少女はニヒルな笑みを浮かべた。
「いまので何かもっと色々やんなった…もう死んだよ…嫌味やめて…」
「未処理の書類はまだまだあるぞ」
少年は見るからにげんなりとした表情をした。
「残念だろうがなんだろうが、この仕事を受けたのは私達だ。全部に意味を見つけよう、自らへの恩赦に」
「あ゙ーう…」
思考の間。念は刹那に起こるものという。その刹那に起こる念が動きの全てならば、整理整頓というのも逃げるか回り道をするのでなければそれ程長くはかからないのではないか。
ルール、善悪、生きる意味、刹那。目指すもの、自己の定義、有る者の自由、己の一つ。
塩水が乾き濃縮された塩田、そこに湖の様に溜まった雨水が夜天を映す。星の降りしきる空は暗く、冷えた夜の大気は呼吸の度に体温を奪う。
流星は願いを叶えるとも言うが、人の死と繋げて考えられる事も多い。落ちる星が自分の星でないよう祈る話もある。もう随分昔に、ここで友と共に見た一つの流星は、その友の星であっただろうか、それとも己の星であっただろうか。流星を見て間もなく戦火に巻かれ、友のその後は知れない。自分はその時に親兄弟をなくし孤児となった。
流星というのはすぐに燃え尽きるか、人の目に触れず確認されないだけで一日に数え切れない程落ちている。落ちる星が人の命なら、目に見える程の降り続ける星ゞは未だ続く戦争によるものだろうか。兵士も一般人も、大人も子供も死んでいく。
自分の願いは自分のものだ、誰かの、自分の外にある星には願わない。ここに居るのは己の未練だ。己が方をつけるべきものだ、頼るものは自分だ。今までもそうだった。友を失くし、家族を亡くし、ただ一人となり頼れるものは己が身一つだった。
流星は燃え尽きても塵を残す。何も残さないわけではないのだ。誰にも知られず消え入ろうと、残るものはたしかに在った。誰にも知られたくなくても、ほんの砂一粒と言えるほどのものだろうと、何も残さずに行くことは出来なかった。たとえどのような姿を取ろうと、生きたことがいずれは他の誰かの道を示す輝きになる。地図も羅針盤も無く先の見えない暗闇でも、星と地形を見定めれば進むべき道がわかる。己の現実と、星から発された光を導に自分は生きぬいた。自分以外の誰にもわからないことだ。
どれもすべてを知られる必要はなく、この先詳しく知られることも無いだろう。それでも、枯れた植物も養分となって巡るように、たしかに在った存在が遺していったものが、多くの存在に役立つように自分は願う。いずれ人を生かすものの一つとなるように。
思い付きはしたものの書けなかったので予定は未定として
白く、広さの測れない霧に満ちた空間。その内でも一番霧が薄いだろう所に深さの知れない水溜りが ある。その不自然に凪いだ水面に、淀みは乖離することもなく、ドロリと境目の取れないマーブル模 様を浮遊させる。淀み模様は濁った七色の油脂光沢を湛え、凪は麻薬のように遊離感を訴え る。これらは大概いつも変わらず時折蓮の葉と水草のようなものが浮く。己はその水溜り緑の、足場 がまだある場所が基本の立ち位置だ。
己の心は表面の凪と淀みに遮られ感が見えない。底を確かめようと手を突っ込めば、どれほど沈み込 むかもわからない、深く水底近くから伸び出る無数の形の定かでない泥のような叫びの腕が、己を水 溜の底へ引き摺り込もうとする。それ故になかなか見るというのが難しい。だが避けていると淀みが 増していく。腕を見ないよう、触れないように慎重に探れど、水中は一寸先も見えないような濁りに 覆われ良く見えない。探索の際は大概手探りに、溜まりの外郭伝いに潜る。
しかし時折一瞬だけ、極小の一部分のみ曇りが途切れる事がある。その一瞬だけは、深く潜らずと も、ともすれば水面からでも、底の一部を垣間見ることができる。見える水底は瓦礫が積み重なり、 どうやら真の底ではない。泥腕はその瓦礫の中から伸びている。水よりも瓦礫よりも下から浮かぶも の。泥腕を辿るか、開いてみてみれば心底を覗けるだろうか。だが泥腕は底へ底へと引き摺り込む、 あまりに急激すぎるのは自分はまだ息ができない。まずは泥腕の観察が先だろうか。暫くは様子見が 良いか。
今日はまだ潜っていない。模様は今のところ鈍曇りである。
生きる。たとえこの生き方が間違いだったとしても。何を知ることも、見ることもなく、ただ生きもせず死ぬことは、己が許さない。
地を這い泥を啜り血を吐いても、それでも死が己を救うことはない。己が己を赦さぬ限り。己を赦せぬ悲劇に浸り続ける限り。
いつの日か己を、この己をも赦せたら、その時こそ真に死ぬことができる。
胸を張っての凱旋となろう。