昼休憩に、同期数人でランチへと出た。……まあ昼飯なのだから『ランチ』で間違いはないのだが、行ったのは職場最寄りの牛丼チェーンなので『昼メシ』と言った方がしっくりきそうだ。
よーし、給料も出たばっかだし、オジサン卵もつけちゃうぞー! などと言いながら、和気藹々とした昼食時間だった。
事件が起こったのは、その帰路だ。
腹の具合が悪い。
突然、急に、何の予兆もなく、猛烈に腹が痛い。
卵か⁉︎ 調子に乗りすぎたのか⁉︎
のんびり戻ろうぜー、などという同期の声に、いや俺やること思い出して……などと言って急かしてはみるものの、皆足取りはゆったりだ。
頼む! 急いでくれ! 俺は今、今月最大のピンチを味わってるんだ!
「お前、さっきからどーしたんよ?」
恐らくというか確実に、俺の挙動が相当に不審だったのだろう。同僚がからかうように言いながら、俺の背をバンバンと叩いてきた。
やめてくれ! 気安いのは嬉しいが、今はその時じゃないんだ!
そう思ったその瞬間。
出てしまった。そう……屁が。
まるで時間が止まったような静寂があり、俺の耳には雀か何かのチュンチュンいう声しか聞こえない。
頼む……、誰か茶化してくれ……! もういっそ、笑い話にしてくれ……‼︎
その願いも虚しく、同僚たちは「も……、戻ろうぜ⁉︎」「そうだな! 急ぐか!」などと、白々しい笑みで『無かった事』にしてくれようとしている。
同僚たちの優しさと気遣いが、心に痛い……。むしろ笑ってくれよ……。
項垂れた俺の視界に、雀がピョンピョン跳ねるように入ってきて、慌てたように飛び立って行った。
飛んでいく雀を見て俺は、今すぐ鳥になって飛び去ってしまいたい……と思うのだった。
お題『鳥のように』
「あ、佐藤くん、今帰り?」
誰も居ない放課後の教室。夕日が斜めに差し込んでいる。
そこで委員会を終え帰り支度をする僕に、話しかけてきた存在があった。
戸口を見ると、クラスで—–いや、学年で一番人気の池上さんがそこに居た。
今帰り? と声をかけられたが、僕は「え? 今の、僕に言った?」と軽くパニックになっていて、何の返事もできなかった。
……こういうところが、コミュ障陰キャなんだよなぁ……。
何も言えない僕を気にせず、池上さんは自分の机の中からペンケースを取り出している。
ああ、どうしよう。彼女に伝えるなら今しかないんじゃないか? でも伝えても気持ち悪がられるだけかもしれない。でも……。
僕がそんな風に迷っているうちに、彼女は「それじゃ、また明日!」と明るく笑って教室を出ようとしている。
いや! 迷ってる場合か! 今だ! 今しかないんだ!
僕は自分を鼓舞しながら、精一杯の勇気を振り絞って池上さんを呼び止めた。
何? と振り向いた彼女に、僕は小さく深呼吸をしてから、出来るだけ静かな声で言った。
「スカートのファスナー、開いてるよ」
僕の言葉に、池上さんは自分のスカートを確認した後、「ああぁぁぁ!」と叫んで蹲ってしまった。
良かった。伝えることが出来た。
僕が気付いたのは昼休みだったけど、きっと誰かが教えるか、自分で気付くだろうと思っていたのだ。
うん。良い事をした。
彼女の僕に対する印象はきっと、『他人のスカートをじろじろ見るキモオタ』になっただろうけど。
「……じゃあ池上さん、また明日」
蹲ったままの池上さんにそう言い、僕は教室を出た。
明日からは、スカートをじろじろ見る変態キモオタとして生きていこう。
そんな風に考え、思わず力無く笑う僕の背後から、とても小さな声で「教えてくれて、ありがと」ときこえた。
お題『さよならを言う前に』
空に模様を描くのは、神様見習いの二人の仕事だ。彼らは空をキャンバスに、自由に絵を描く。
時には澄んだ薄い薄い蒼を幾重にも重ね、時には重たい鉛色の雲を散らし、時には真綿のような入道雲を浮かべ。
そうして、好きなように季節を彩るのだ。
しかし彼らは、己の仕事に飽いていた。
好きに彩れと言われても、バリエーションには限度があるのだ。
空を見上げた人間に「この雲、前も見た」と思われるかもしれない。でももう、パターンは出し尽くした。
「もうさー、どっちの描いた絵がバズるかとかやらね?」
言い出した片方に、やはり仕事に飽き飽きしていたもう片方も「あー、いいかも」と頷いた。
ソフトクリーム型、くまちゃん型などの雲を浮かべ、「これは結構、好評なんじゃね?」と自信満々でもう片方を見た見習いは、悔しそうに眉を寄せた。
何故なら、彼の相方が笑顔で空に描いていた模様は、これが嫌いな小学生男子はきっと居ないと思われる『う◯こ』だったのだ。
その隣には、やはり小学生男子なら爆笑間違い無しの『男性の(センシティブ自主規制)』が並んでいる。
「イヤ、まじでダメだろ、センシティブは!」
「何でよ? 何がダメよ?」
「そんなん笑うに決まってんじゃん! 卑怯じゃん!」
そんな言い合いをしつつも、彼らは次々と空に『作品』を描きあげていく。
……結果として、クマちゃん雲は大いにバズった。そしてそれ以上に、センシティブ雲がバズりにバズった。
その日の夜、彼らは上司である神様からこっ酷く叱られ、翌日の空は雨模様となったのだった。
お題『空模様』
ピンク色の髪はツインテールにして、リボンとぬいぐるみで飾る。
チュールがたっぷり入ったふわふわスカートと、フリルたっぷりのビスチェ。
自前のクマを活かした病みメイクも可愛く決まった。
ネイルもキラキラで、とっても可愛い。
靴は……用意してあるけど、畳の部屋でゴツいラバーソウルのブーツは流石に抵抗感がある。床にタオルを敷いた上に靴を並べ、履いたつもりで鏡を見る。
うん、めっちゃイイ! すんごい可愛い!
鏡の前で角度を変えたり、ポーズを取ったりして、名残惜しく思いながらも『いつもの私』に戻る。
ねえ、鏡。
さっきの私、可愛かったよね。全然「馬鹿みたいな品のない格好」なんかじゃなかったよね。
『いつもの私』に戻り、私は鏡に語りかける。
ねえ、鏡。あなたは覚えていてね。意気地のない私の、ささやかな反抗を。
お題『鏡』
どうしても捨てられないものがある。
捨てるのは難しい事ではない。別段、大切にしている訳でもない。言ってしまえば、捨てたくて堪らないものですらある。
けれど、どうしても捨てられないのだ。
それは、現実を直視するのが恐ろしいから。
そうは言っても、いつまでも逃げている訳にはいかない。
そろそろ、その事実と向き合う時間なのだ。
そう決意して、手を伸ばした。
——冷蔵庫の奥地の、恐らく三年程以前からそこに居続けているジャムの瓶に。
お題『いつまでも捨てられないもの』