7
「太陽の下で寝たいよう!!!あーーーっはっはっは!!!!!!」
「そのまま寝て干物にでもなっていろ」
のどかな秋晴れの、ある昼下がり。
6
何故このような事になったのか―――
己の手の中にある、冷たく、固くなった"其れ"を握りしめながら俺は膝から床に崩れ落ちた。
手の震えが止まらない。
かつて何よりも柔らかく温かであった"其れ"は、成人男性である俺の身体をも容易に包み込める程の包容力を誇っていた。
それが今やすっかり縮こまり、かつてのふわりとした肌触りはどこへやら、ごわごわとした重い何かへと変貌を遂げている。
俺は何とか立ち上がり、震える手でクローゼットの扉を閉める。
そうして左手に"其れ"を握りしめながら、寝室のドアをゆっくりと開けた―――
リビングでは、死ぬほどしょうもなさそうなバラエティ番組を観ながら乾いた笑いを漏らしている男がごろりと横になっていた。
男はそのまま俺の方へゆっくりと顔を向けると、手に握られている"其れ"を見、「おっ」と声を上げた。
「お前のセーター、洗濯しといたぜ!!!!!」
太陽のような眩しい笑顔。
そこに邪気など存在せぬ。そう、こいつはそういうヤツなのだ。
俺は一度ゆっくりと溜息を吐くと、縮んだカシミヤ100%のセーターを思い切り奴の笑顔に叩きつけた。
どこまでも落ちていく
深い深い夜空を越え 星空の海へ
惑星と踊り 太陽に焦がれ 月に馳せ
煌めく星雲の水面に沈み
ただ星々が征くままに 心運ばれ
そうして輝ける星々をなぞって
交わる線に貴方の星座を見つけたら
蛹脱ぎ捨て際目の先まで
5
『じゃあ、私はどうすればいいの?』
あの日、私が最後に彼に放った言葉は、今時ドラマでも使われぬような安っぽく陳腐な台詞だった。
土砂降りの雨と夜の闇で、雨の音が激しく鳴り止まぬ中、奴は一言すまない、と言ったきり口を噤(つぐ)む。
少し離れた場所に立つ奴の表情は此方からは伺い知れない。が、見えなくても私には分かる。分かってしまう。
どうせこいつはいつものように、すました顔で、冷たい瞳で、こちらを見ているのだ。
いつもそうだ。こいつは決して胸の内を表情には出さない。口にも出さない。
笑いもせず、怒りもせず、ただ淡々と話をするだけ。
感情的になる事も一切ない。
すまないと謝った事だって、本当にそう思っているのかも怪しい。
始めたのは私からだった。
あれは高校生の時。
常に冷静沈着、頭脳明晰、運動神経抜群で顔も良い。
ただ、その冷た過ぎる雰囲気のせいなのか、高嶺の花過ぎるのか、実際に話しかける女子は居なかった。
というか男子すらあまり話しかけて居なかった。
要は孤高の存在だったのである。
今思えば本当に陳腐な話だが、その時の私は『誰とも群れないで居るなんてかっこいい』とか何とか思い、こいつに本気で恋をしてしまったのだった。
告白を了承してもらえたのは驚いたが、今振り返ればカップルらしい事は全くしなかった。
ただ、一緒にいただけ。
いや、本当の意味で一緒に居たのかも怪しい。いつも、何をするにも連絡するのは私の方からだったし。
奴にとって私は何だったのか。私はどうすれば奴の特別になれたのか。
悔しさと悲しさ、無力感に押しつぶされそうで、私はそのまま、差している傘を地面に投げ付け、その場を走り去ったのであった。
――――と、まあ、それで終わる話であれば只のホロ苦い過去というだけで済んでいたのだが……。
あの別れから十数年経過したつい先日の事である。
帰路に着くべく夕焼けに染まる道をただひたすらに歩いていた私は、十メートル程先に見覚えのある姿形を見つけてしまった。
すらりと伸びた背、長い手足、珍しい色の髪――――
後ろ姿ではあったが、見間違える筈もない。
間違いない。奴である。
その瞬間、私は(実質的に)フラれた事さえすっかり忘れて、奴へと駆け寄ろうとしていた。
だがその瞬間。
凄まじい足音を轟かせて、私のすぐ横を巨大な何かが通り過ぎたのであった。
(え……ゴ、ゴリラ…!?ゴリラか…!?)
あまりのガタイの良さと勢いで人間だと認識するのですら時間が掛かった。
ゴリラが通り過ぎただけでも驚いたのに、そこから更に衝撃的な事が起こってしまう。
ゴリラの足音に、奴がゆっくりと振り返った。
その瞬間の奴の顔。
遠方でも分かる。あれは―――
(……嘘だろ。笑ってるじゃねーか)
ゴリラが何か叫んでおり、それに対して奴が嫌々そうにしながらも何かを返しているの見た時、私はあの日投げかけたあの質問の答えを十数年ぶりに叩き返された気がした。
『私は、どうすればいいの?』
答えは簡単だ。どうする事も出来なかった。
私はあのゴリラにはなれなかった。
それが全ての答えである。
私は踵を返し、家とは反対方向へと歩き出した。
(…ちっくしょーーー!)
奴に対して未練は無い。けれど今この瞬間、ようやく私はあの日から時間を進めることが出来た気がした。
終われない。私はこのままで終われない。
私は私の道を、私の幸せを見つけてみせる。
背後には夕焼け、眼前には其れを染め上げる藍色の空。
その中に私は、輝く一つの星を見た。
――――
昨日書いた『宝物』と繋がっているお話です。
良かったらそちらも読んでみて頂けたら嬉しいです。
4
ひたすらに野を駆け回っていた。
己の身長の数倍はあろう木に登り、バッタやクワガタ、カブトムシなど様々な虫を捕まえた。
キラキラと煌めく水面に目を細めながら、冷たく澄んだ川の水を掛け合った。
そうして夕方のチャイムが帰宅の刻を知らせるまで、ひたすらに駆け回り、皆で遊んだ。
今となっては彼等の正確な名前も顔も、何もかもが靄がかかったかのように思い出せない。
ただ、特別贅沢なものは何も無くとも、笑い合い、何が起こっても楽しかった、己にとって宝物のようなあの日々ーーー。
思えばあの頃は、どこまでも行ける気がしていた。
何者にもなれる気がしていた。
どんな事も乗り越えていける。そんな気がしていたーーー
あれから二十年近く。
いつもより早く仕事を終え、俺は居住するマンションへの帰路に着いている。
黄昏時は嫌いだ。
底知れぬ不安へと引きずり込まれるかのような錯覚を覚える。
思えばあの頃から、黄昏時は嫌いだった。
夕方のチャイムが一日の終わりを知らせるからだろうか。
橙色の空に群青が迫るその様が、闇の侵食を連想させるからか。
地面に伸びた己の影が短くなり、夕日が闇に飲み込まれるこの時間。
すっかり冷たくなった秋風が長い長い冬の気配を感じさせる。
思えばあの頃は其れでも、全てが煌めいて見えた。
不安や恐怖も翌日の朝日や日々の楽しさですぐに忘れ去る事が出来た。
(今は、希望などと言った不確定要素で全ての不安が打ち消せる程、無知では無くなってしまったな)
宝物のようなあの日々はもう帰ってこない。
では今はーーー
その時。
轟音とも言えるであろう足音が背後遠方から聞こえてきた。
物凄い速さで近付く足音に途轍もなく嫌な予感を抱きながらも、俺はゆっくりと振り返る。
「おおーーーい!!!今日は随分早ぇなあーーー!!!!!」
頼むからこんな住宅地で、十数メートル先からそんなに大声で話しかけないで欲しい。
「おい、あまり大声をーーーー」
「えーーー!?!?何だってえーーー!?!?!?」
全速力で走りながらも更に大声で男はそう叫んだ。
全身黒ずくめの大柄な男がこちらへ走って来る様は、知らぬ人間が見ればかなりの恐怖を感じるであろう。
既にこの光景だけでも職務質問待った無しと言える。
「ふーーーっ。やっと追いついたぜ」
男はそう言いながら鞄を持ち直す。
「…よくあのような遠くから俺だと分かったな」
俺がため息混じりにそう言うと、男は「そりゃあたりめーだろ」と言って笑った。
「だっていつでもそうだったじゃねーか。あれは確か二回目に偶然再会した時ーーーー」
「…二回目?……まさか例のクジ引き抽選会場か?」
「お!そうそうそれだよ!」
久々に思い出してしまった。完全なる悪夢である。
「それから三回目にホームセンターで偶然再会した時もそうだな。その後がーーー確か……」
「八千代さんの結婚式だ」
俺がそう言うと男はおおそうだ、と指を鳴らした。
「姉ちゃんの結婚式だったな。あれはほんと衝撃だったよなぁ。二次会の会場に元彼が乱入して来たと思ったらいきなりミュージカルが始まっちまうなんて思いもしなかったもんな。で、お前がなぜか最後のソロパートを歌うことになったんだよな」
あれはほんと面白かったぜ、と男はカラカラと笑う。
「やめろ、あれは人生の中で最も忘れたい瞬間なんだぞ」
あんな訳の分からない茶番はもう二度と勘弁してもらいたい。
「そうかぁ?俺はあれ、一生忘れねぇぜ」
楽しかったな、と男は空を仰ぎ見て言った。
ーーー嗚呼、そうだ。
あの頃の、幼少期の煌めくあの日々はもう二度と帰っては来ない。
それは俺がとうの昔に子供時代を脱したからであって、経験や知識が積み重なった今、仮に今あの頃と全く同じシチュエーションになろうとも、あの頃と全く同じ感情が帰って来よう筈もない。
其れは、俺が大人になったという証拠である。
けれど今こうして生きていく中で迎えている毎日は、形は違えどもかけがえのない大切な日々であり、これからも守り続けて行きたい大切な日々である。
そう、これこそが今の俺にとっての宝物なのだ。
(まあーーーついこの間までだったら、こんな風には思えなかっただろうな)
どこかで夕飯の美味そうな匂いが漂ってくる。
男は空から目を離し、己の腹を見、擦りながら口を開いた。
「はーー、腹減ったぜ。今日の晩飯当番はお前だからなーーーーーーん?」
男は何かに気付いたようにこちらを見ると、おもむろに腕を肩に回した。
「何だよ、何か嬉しそうじゃねーか」
晩飯を作れるのがそんなに嬉しいのか?と楽しげに言いのけるので、俺は膝で奴の太腿辺りを小突く。
「なわけあるか……今日は、その…お前も一緒に作れ」
「……お前、何か変なもん食ったのか…?」
俺はもう一度奴の太腿を蹴り上げる。
男の叫びがこだまする黄昏の空を、俺はもう一度仰ぎ見る。
今はもう、染まりゆく群青に恐怖は感じなかった。