微睡 空子

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ひたすらに野を駆け回っていた。


己の身長の数倍はあろう木に登り、バッタやクワガタ、カブトムシなど様々な虫を捕まえた。
キラキラと煌めく水面に目を細めながら、冷たく澄んだ川の水を掛け合った。
そうして夕方のチャイムが帰宅の刻を知らせるまで、ひたすらに駆け回り、皆で遊んだ。

今となっては彼等の正確な名前も顔も、何もかもが靄がかかったかのように思い出せない。
ただ、特別贅沢なものは何も無くとも、笑い合い、何が起こっても楽しかった、己にとって宝物のようなあの日々ーーー。

思えばあの頃は、どこまでも行ける気がしていた。
何者にもなれる気がしていた。
どんな事も乗り越えていける。そんな気がしていたーーー



あれから二十年近く。
いつもより早く仕事を終え、俺は居住するマンションへの帰路に着いている。

黄昏時は嫌いだ。
底知れぬ不安へと引きずり込まれるかのような錯覚を覚える。
思えばあの頃から、黄昏時は嫌いだった。
夕方のチャイムが一日の終わりを知らせるからだろうか。
橙色の空に群青が迫るその様が、闇の侵食を連想させるからか。

地面に伸びた己の影が短くなり、夕日が闇に飲み込まれるこの時間。
すっかり冷たくなった秋風が長い長い冬の気配を感じさせる。

思えばあの頃は其れでも、全てが煌めいて見えた。
不安や恐怖も翌日の朝日や日々の楽しさですぐに忘れ去る事が出来た。

(今は、希望などと言った不確定要素で全ての不安が打ち消せる程、無知では無くなってしまったな)

宝物のようなあの日々はもう帰ってこない。
では今はーーー


その時。
轟音とも言えるであろう足音が背後遠方から聞こえてきた。
物凄い速さで近付く足音に途轍もなく嫌な予感を抱きながらも、俺はゆっくりと振り返る。

「おおーーーい!!!今日は随分早ぇなあーーー!!!!!」

頼むからこんな住宅地で、十数メートル先からそんなに大声で話しかけないで欲しい。

「おい、あまり大声をーーーー」
「えーーー!?!?何だってえーーー!?!?!?」

全速力で走りながらも更に大声で男はそう叫んだ。
全身黒ずくめの大柄な男がこちらへ走って来る様は、知らぬ人間が見ればかなりの恐怖を感じるであろう。
既にこの光景だけでも職務質問待った無しと言える。

「ふーーーっ。やっと追いついたぜ」
男はそう言いながら鞄を持ち直す。
「…よくあのような遠くから俺だと分かったな」
俺がため息混じりにそう言うと、男は「そりゃあたりめーだろ」と言って笑った。

「だっていつでもそうだったじゃねーか。あれは確か二回目に偶然再会した時ーーーー」
「…二回目?……まさか例のクジ引き抽選会場か?」
「お!そうそうそれだよ!」
久々に思い出してしまった。完全なる悪夢である。
「それから三回目にホームセンターで偶然再会した時もそうだな。その後がーーー確か……」
「八千代さんの結婚式だ」
俺がそう言うと男はおおそうだ、と指を鳴らした。
「姉ちゃんの結婚式だったな。あれはほんと衝撃だったよなぁ。二次会の会場に元彼が乱入して来たと思ったらいきなりミュージカルが始まっちまうなんて思いもしなかったもんな。で、お前がなぜか最後のソロパートを歌うことになったんだよな」

あれはほんと面白かったぜ、と男はカラカラと笑う。
「やめろ、あれは人生の中で最も忘れたい瞬間なんだぞ」
あんな訳の分からない茶番はもう二度と勘弁してもらいたい。
「そうかぁ?俺はあれ、一生忘れねぇぜ」
楽しかったな、と男は空を仰ぎ見て言った。


ーーー嗚呼、そうだ。
あの頃の、幼少期の煌めくあの日々はもう二度と帰っては来ない。
それは俺がとうの昔に子供時代を脱したからであって、経験や知識が積み重なった今、仮に今あの頃と全く同じシチュエーションになろうとも、あの頃と全く同じ感情が帰って来よう筈もない。

其れは、俺が大人になったという証拠である。

けれど今こうして生きていく中で迎えている毎日は、形は違えどもかけがえのない大切な日々であり、これからも守り続けて行きたい大切な日々である。

そう、これこそが今の俺にとっての宝物なのだ。

(まあーーーついこの間までだったら、こんな風には思えなかっただろうな)

どこかで夕飯の美味そうな匂いが漂ってくる。
男は空から目を離し、己の腹を見、擦りながら口を開いた。

「はーー、腹減ったぜ。今日の晩飯当番はお前だからなーーーーーーん?」
男は何かに気付いたようにこちらを見ると、おもむろに腕を肩に回した。
「何だよ、何か嬉しそうじゃねーか」
晩飯を作れるのがそんなに嬉しいのか?と楽しげに言いのけるので、俺は膝で奴の太腿辺りを小突く。
「なわけあるか……今日は、その…お前も一緒に作れ」
「……お前、何か変なもん食ったのか…?」
俺はもう一度奴の太腿を蹴り上げる。

男の叫びがこだまする黄昏の空を、俺はもう一度仰ぎ見る。

今はもう、染まりゆく群青に恐怖は感じなかった。

11/20/2024, 3:52:43 PM