見知らぬ街
帰宅ラッシュの時間帯なのか、電車の中はそこそこに混んでいて、どこにももたれかかれずに吊り革につかまる。地元のだと大体座れないなんてことはないのにな、とため息を吐く。しかも自分の身長だと低くなってる吊り革の方が体重を預けやすくてありがたいんだけど、それは叶わずに微妙な高さにある吊り革に手を伸ばしていた。各駅に止まるから心配はないはずなのに、アナウンスは知らない駅ばかりで心がざわざわする。何度も乗り換えのアプリを開いてはこれであっているかと照らし合わせる。大きなキャリーケースを持っている人も多くてなんか都会だなあって他人事みたいに思いながら、自分のキャリーケースを掴む右手に力を入れた。高速で動いていく車窓には夜なのに灯りがたくさんともっていて綺麗…なんて思っていたら自分の降りる駅の名前が聞こえて急いで出る。なんだか人が多くて、人の歩くスピードも速くて、自分は全く場違いな感じ。前から歩いてくる人を避ける術が上手くいかず、舌打ちされては目の前を去っていかれたり。あぁ、怖い、やだ、帰りたいとネガティブな感情で頭が支配された時、改札を抜けたところに見えた愛しい人の顔。
「あっ、こっちこっちー。」
いつもと同じ彼の笑顔になんだかすごくホッとして歩みを速める。「迷わんかった?大丈夫?」と言いながらキャリーケースを持つのを変わってくれ、さらには空いた右手を繋いでくる一連の流れがあまりに綺麗でびっくりした。そうだ、この人はそういう人だったと頭で理解することはできても、感情はついていかず顔は赤くなるばかりで笑われてしまった。
「もうこれからは夫婦なんやからさー、いい加減慣れてや?」
とさらっと言われてしまい、また脳は混乱する。この期に及んでまだ自分で良いのかなんて問えば、ムッとした顔で当たり前だと返されるのは分かっている。ただ、まだこの状況が信じられないのだ。なんなら結婚詐欺って言われた方がまだ信じられる。周りの人に言うとマリッジブルーだとか何とかまともに取り合ってくれない。ただ、相手の写真を見せるとみんなの目の色が変わって本当に結婚詐欺ではないか心配されるぐらいには私と釣り合っていないのだ。整った顔立ちはどこかのハーフかのように思えるけど、一度聞いてみたら「純日本人やでー?」とコテコテの関西弁で笑われた。背も高いし、スタイルの悪い自分とは全くもってアンバランスだ。
「え、何?そんな見つめて恥ずかしいわあ。」と言いながら、私と違って赤くならない顔は、ただその綺麗さを強調しているだけだった。それでも私はこの人と、この見知らぬ街で生きていくことを決めたんだから、本当に人生って分からないな。そう思いながら右手を握る力を強めた。
遠雷
もう8時だと言うのに窓から見える暗い雲は朝を全く感じさせない。おまけに不定期でゴロゴロという不穏な音が聴こえては止むを繰り返していてなんだか落ち着かない。せっかくの休み、新たに駅前に出来たカフェのモーニングに出かけようかなんて話していたのに。朝からゆったりと二人の時間を満喫しようとしていたのに、この仕打ちは許せない。最大限に暗くした画面で天気を検索すると、どうやら警報まで出ていたらしい。諦めにも近いため息が溢れ、そっと、まだ夢の中にいるその子の髪を撫でた。起こしたくは無いから、その真っ直ぐな黒髪に触れる程度に留める。ふと窓の外が光り、数秒経ってから音が聴こえる。光ってから音が鳴るまで時間があったからどこか遠くの方に落ちたのだろうと結論づけ、無意味にいじっていた携帯をサイドテーブルに置く。すると、感覚を失っていた左腕の上の重みが動き、寝起きの掠れた声が聴こえてきた。
「かみなり…?」
「ん、おはよう。そう。まぁ、そんな近くないから…」
言い終わらないうちにまた目を閉じたかと思えば、体勢を変えて自分にしがみつくように眠り始めた。雷が怖いとか言うような年齢でも無いし、普段から怖いものなしの彼女だから無意識の行動なのだろうけど何故だかとても嬉しくなった。優しい寝息をたてる眠り姫を抱きしめて自分も目を閉じる。こんな時間をくれたのだから、仕方ないし雷は許してやろう。
君と飛び立つ
君と飛び立つ日。右を見ると、今まで以上に綺麗な格好をした君。隣に立つ自分はこれで良いかなんて白のシャツの襟を正す。
「大丈夫。ちゃんとかっこいいから。」
なんてポンと背中を叩かれる。これじゃどっちがリードしてるんだか分からない。颯爽と前を歩く君に置いていかれないように走り出した。大きなキャリーケースの音が鳴り響く。今日は、君とハネムーンに飛び立つ日。
きっと忘れない
きっと忘れないとか、そりゃ文面だけなら何だって言えるよね。新幹線に乗る前に渡された手紙をそっと撫でる。あの人に会えなくなると頻繁にネガティブな自分が顔を出すようになった。元々の自分に戻っただけなのに、とても退化した気分だ。
「きっと忘れないからね。必ず、またどこかで会いましょう。」
手紙なんてこの時代にわざわざ、ちょっと離れるだけで大袈裟な、とか本人の前では強がって笑っていたくせに、事あるごとにその手紙に縋るのは本当に惨めだ。高校になっても買い与えられなかった携帯電話を今更手にしたってあの人の連絡先は入っていない。SNSだって必死で探したけどヒットは0。自分よりも裕福な家に生まれたあの人は小さい頃から携帯電話を手にしていたはずだけど、流行りとかはそれほど興味が無いと冷めた子だったから、アプリは入れてるけど使ってないとかきっとそんなところだろう。だからこそ、この古くなった紙に頼るしか無いのだけれど。綺麗な顔とは裏腹に豪快な文字、それでもたくさん考えてくれたのか文面は整っていて。慣れない手紙でかしこまった文体は、あの人らしいポジティブな言葉をたくさん綴っていた。まさか、就職してまでこの言葉たちに救われているなんてあの人は想像さえしていないだろう。"また"も"どこかで"も、実現するかどうかは分からない不確実なもので、建前だけの言葉なのかもしれないけど、それでもその不確実な機会を一生待ち続けたいと思っている。
目を閉じる寸前、今日の出来事を反芻する。ちょっとしたミスをして上司に怒鳴られた。先輩がフォローしてくれて大事にはならなかったけど迷惑をかけてしまった。あの時、ああすれば…いや、うん、こっちで先にこうしておけば良かったか。ぐるぐると思いを巡らせては解決策と次の対応を結論づける。反省はして、解決法も分かって、もう同じミスはしないという決意だってしたけど、やはりモヤモヤは晴れない。根本的にこの仕事に向いていないだとか、自分は何もできない人間だとか、上司に言われた以上の悪口を考えては頭が重い。こんな夜はあれに頼るしかない。引き出しに大事にしまっていたそれを取り出す。封筒をとめていたシールは剥がしすぎて粘着力を持たない飾りとなっていた。
「しゅうへ」
あの人が書いてくれた自分の名前を見ると、なぜか全てを許された気になる。自分は生きていて良いのだ、自分はあの人に呼んでもらえるほどの存在なのだと、自分で自分を初めて認められる。何度も読み返して覚えた文面をあの人の声で辿る。人が最初に忘れるのは声だってなんかのテレビで言ってた気がする。だけど自分は忘れない。顔に似つかないあの人の低い声が好きで、忘れないように何度も何度もあの人の声を再生して読み返す。もうあの人は自分の声を忘れてるかな。特に低くも高くも無い特徴のない声だから、きっと別の何かに置き換わっていたって分からないだろう。そんなことを考えては、はっと目の前の手紙に視線を戻す。せっかくあの人の手紙を読んでいるのに、自分のネガティブが上回るようになってきてしまった。何年も大事にしてきたお守りは、徐々にその効果を発揮して、その意義を全うするように力をすり減らしていっていた。嫌だ。嫌だ。このお守りが無くなってしまっては縋るものが何もない。冗談じゃない。あの人を感じる唯一の方法を失えば、声も、顔も、思い出も、徐々に淘汰されていくだろう。怖い。あぁ、どうすれば……元の封筒に丁寧に閉まってから、自分自身を雑に放り投げベッドに倒れ込む。顔を伝う水滴を誤魔化すように身を捩って無理やり目を閉じた。
久々の休日。実家ごと引っ越してからは縁も無かったあの地へ戻ってきた。幼い時はとても長く感じた新幹線も、あの人の手紙を何十周もしてれば一瞬で。懐かしいはずの場所なのに、新しい建物が立ったり諸々がリニューアルされていて不思議な気分だ。記憶を辿って、元の家のあった場所に行く。自分が住んでいた頃よりも綺麗な家が建っていて違う人の表札があるのを見てからまた歩き出す。暑さからか緊張からか、鼓動が早くなって、喉が渇いて、息が苦しくなってくる。それでも歩みは止められない。あの頃何度も訪れたあの人の家。当時から大きいと思っていたけど、今考えてもやっぱり立派な家にはあの頃と変わらないアルファベットの名前のプレートがかかっていた。何とも言えない高揚感にチャイムを押そうとした手が止まる。
自分のこと覚えてるかな。最後に会ったのは高校1年の時だから、えっと…片手では数えきれないその年数を今更思い返す。あれから色んな人と会って、進学して、働いて、なんてしてたら自分のことなんて忘れていてもおかしくない。むしろ、こっちがこんなに囚われている方がおかしいくらいだ。あれほど恋焦がれていた人物に会って、どなたでしたっけなんて言われてしまったらもう立ち直れない。あの人に名前を呼ばれなくなってしまった自分に価値なんてない。あぁ、嫌だ。どうしよう。怖い。ここまできて、やっぱり帰ろうかなんて考えだした時のことだった。
「しゅう?しゅう?しゅうだよね。」
あの頃と変わらない低い声は、大人びた綺麗な顔は、泣きそうなのを堪えた優しい表情は、自分の名前を何度も呼んだ。泣きながら飛びついて、思う。忘れなくて良かった、忘れてなくて良かった、生きていて良かった、と。
足音
不意に眠たくなって意識が飛んでしまいそうな時、コツコツと鳴る足音が聞こえてハッとして顔を上げる。こんな緑ばかりで寂れた町には似つかわしくない綺麗な人。よくバランスが取れているなと感心するほど高いヒールに、高そうなブランドのロゴのバッグ。綺麗に巻かれた傷みのない髪にくっきりとした目鼻立ち。身に纏っているのはシンプルなワンピースだけど、きっと私が買っている服とは桁がいくつも違うのだろう。どうしよう、こんな綺麗な人、うちのおじいちゃんとか見たらびっくりして倒れちゃうんじゃないかな…なんて思考を巡らせている間に綺麗な人は口を開いた。
「…おはよ。まだ時間前だけど、待たせちゃった?」
「ううん!大丈夫、今来たばっかり!」
嘘。本当は無意味に1時間も早く着いてしまっていた。だって彼女が故郷を訪ねているくるなんて、実家に招くなんて考えたことすらなかったし。周りにもお店が無い中でベンチでぼーっとしていたら眠くなってしまったけど、いまだに緊張は止まらない。
「嘘でしょ。あんた寝てたの窓から見えてたから。」
「うっ、ごめんなさい…」
「気遣ってくれたのは嬉しいけど、嘘はつかない約束でしょ?」
そう言って私の目を見据える彼女の顔はとても優しかった。私はやっぱり綺麗な顔だなー、なんて思いながらごめんなさいと再度謝る。
「まったく……本当ごめんね。こんなになるまで待たせちゃって。」
そっと私の黒い腕に白い手が添えられた。気がついていなかったけどこんな自然の中スプレーも振らずにぼーっとしてたから蚊にかまれていたらしい。気づかずにかいた跡が存在感を出していた。すると、彼女は肩にかけていたジャケットを私に羽織らせた。
「暑いかもだけど、我慢してくれる?」
「え、いや、いいよ!こんな高そうなやつ、私着れないよ…」
「いいの。それそんなに高くないから。」
彼女の高くないを信用してはいけない。彼女の家で冷蔵庫にあったドライフルーツをつまみ食いしちゃってバレないように買い直そうとした時のこと。いつも行くスーパーに無くて、もしやと思って高級スーパーに行ってみて見つけた。スーパーでたまに奮発して買うフルーツよりも高くてめまいがしそうだった。結局買い直して食べたことも併せて素直に謝って差し出すと、そんな申し訳なさそうにしなくても安いやつだから自由に食べていいよと笑われた。これを高くないと思う彼女の金銭感覚と、庶民の私ではやっぱり圧倒的な溝がある。そう思わせられる出来事だった。だから、このジャケットだってきっと……優しい肌触りのジャケットをそっと撫でて、この汚い道に落とさないようにしっかりと袖を通した。