きっと忘れない
きっと忘れないとか、そりゃ文面だけなら何だって言えるよね。新幹線に乗る前に渡された手紙をそっと撫でる。あの人に会えなくなると頻繁にネガティブな自分が顔を出すようになった。元々の自分に戻っただけなのに、とても退化した気分だ。
「きっと忘れないからね。必ず、またどこかで会いましょう。」
手紙なんてこの時代にわざわざ、ちょっと離れるだけで大袈裟な、とか本人の前では強がって笑っていたくせに、事あるごとにその手紙に縋るのは本当に惨めだ。高校になっても買い与えられなかった携帯電話を今更手にしたってあの人の連絡先は入っていない。SNSだって必死で探したけどヒットは0。自分よりも裕福な家に生まれたあの人は小さい頃から携帯電話を手にしていたはずだけど、流行りとかはそれほど興味が無いと冷めた子だったから、アプリは入れてるけど使ってないとかきっとそんなところだろう。だからこそ、この古くなった紙に頼るしか無いのだけれど。綺麗な顔とは裏腹に豪快な文字、それでもたくさん考えてくれたのか文面は整っていて。慣れない手紙でかしこまった文体は、あの人らしいポジティブな言葉をたくさん綴っていた。まさか、就職してまでこの言葉たちに救われているなんてあの人は想像さえしていないだろう。"また"も"どこかで"も、実現するかどうかは分からない不確実なもので、建前だけの言葉なのかもしれないけど、それでもその不確実な機会を一生待ち続けたいと思っている。
目を閉じる寸前、今日の出来事を反芻する。ちょっとしたミスをして上司に怒鳴られた。先輩がフォローしてくれて大事にはならなかったけど迷惑をかけてしまった。あの時、ああすれば…いや、うん、こっちで先にこうしておけば良かったか。ぐるぐると思いを巡らせては解決策と次の対応を結論づける。反省はして、解決法も分かって、もう同じミスはしないという決意だってしたけど、やはりモヤモヤは晴れない。根本的にこの仕事に向いていないだとか、自分は何もできない人間だとか、上司に言われた以上の悪口を考えては頭が重い。こんな夜はあれに頼るしかない。引き出しに大事にしまっていたそれを取り出す。封筒をとめていたシールは剥がしすぎて粘着力を持たない飾りとなっていた。
「しゅうへ」
あの人が書いてくれた自分の名前を見ると、なぜか全てを許された気になる。自分は生きていて良いのだ、自分はあの人に呼んでもらえるほどの存在なのだと、自分で自分を初めて認められる。何度も読み返して覚えた文面をあの人の声で辿る。人が最初に忘れるのは声だってなんかのテレビで言ってた気がする。だけど自分は忘れない。顔に似つかないあの人の低い声が好きで、忘れないように何度も何度もあの人の声を再生して読み返す。もうあの人は自分の声を忘れてるかな。特に低くも高くも無い特徴のない声だから、きっと別の何かに置き換わっていたって分からないだろう。そんなことを考えては、はっと目の前の手紙に視線を戻す。せっかくあの人の手紙を読んでいるのに、自分のネガティブが上回るようになってきてしまった。何年も大事にしてきたお守りは、徐々にその効果を発揮して、その意義を全うするように力をすり減らしていっていた。嫌だ。嫌だ。このお守りが無くなってしまっては縋るものが何もない。冗談じゃない。あの人を感じる唯一の方法を失えば、声も、顔も、思い出も、徐々に淘汰されていくだろう。怖い。あぁ、どうすれば……元の封筒に丁寧に閉まってから、自分自身を雑に放り投げベッドに倒れ込む。顔を伝う水滴を誤魔化すように身を捩って無理やり目を閉じた。
久々の休日。実家ごと引っ越してからは縁も無かったあの地へ戻ってきた。幼い時はとても長く感じた新幹線も、あの人の手紙を何十周もしてれば一瞬で。懐かしいはずの場所なのに、新しい建物が立ったり諸々がリニューアルされていて不思議な気分だ。記憶を辿って、元の家のあった場所に行く。自分が住んでいた頃よりも綺麗な家が建っていて違う人の表札があるのを見てからまた歩き出す。暑さからか緊張からか、鼓動が早くなって、喉が渇いて、息が苦しくなってくる。それでも歩みは止められない。あの頃何度も訪れたあの人の家。当時から大きいと思っていたけど、今考えてもやっぱり立派な家にはあの頃と変わらないアルファベットの名前のプレートがかかっていた。何とも言えない高揚感にチャイムを押そうとした手が止まる。
自分のこと覚えてるかな。最後に会ったのは高校1年の時だから、えっと…片手では数えきれないその年数を今更思い返す。あれから色んな人と会って、進学して、働いて、なんてしてたら自分のことなんて忘れていてもおかしくない。むしろ、こっちがこんなに囚われている方がおかしいくらいだ。あれほど恋焦がれていた人物に会って、どなたでしたっけなんて言われてしまったらもう立ち直れない。あの人に名前を呼ばれなくなってしまった自分に価値なんてない。あぁ、嫌だ。どうしよう。怖い。ここまできて、やっぱり帰ろうかなんて考えだした時のことだった。
「しゅう?しゅう?しゅうだよね。」
あの頃と変わらない低い声は、大人びた綺麗な顔は、泣きそうなのを堪えた優しい表情は、自分の名前を何度も呼んだ。泣きながら飛びついて、思う。忘れなくて良かった、忘れてなくて良かった、生きていて良かった、と。
8/21/2025, 9:15:22 AM