やさしさなんて
やさしさなんていう抽象的な言葉は卑怯だ。誰だって人に良く思われたいという願望はあるものだし、意識的にも無意識的にも嫌われないように、と人の意図を汲んだ行動をすることは一度や二度ではないはずだ。つまり、やさしさを演出する行動は、その裏に本来の純粋なやさしさとは違った意味を持つことがほとんどであり、やさしいと人を褒めることは、その人の内面を褒めるのではなく、あくまでも表面的な行動をやさしいと受け手が自分の軸で評価しているだけである。
「だからね!ぼくがあなたに告白した理由の"顔が綺麗だから"と、あいつが告白した理由の"やさしいから"はどっちも同じ表面のことなんですよ!」
「や、普通に優しいからって言われた方が嬉しいから。」
夢じゃない
この状況が夢じゃないことは誰よりも自分が分かっている。だってこんな状況でも、ハーゲンダッツのアイスはおいしい。
「おいしい?」
「…はい。」
私が食べているところを頬杖をついて見守っているこの人は、なにがおかしいのかずっと笑みを浮かべている。そんなに見られたら食べづらい…なんて思いながらも美味しいからスプーンを持つ手は止まらない。
「アイス奢るからちょっと付き合ってや。」
なんていう怪しさ満点の誘い文句でこの綺麗な顔の人にナンパされたのは、10分ほど前のこと。先生の都合で急に部活が無くなり、早い時間に帰れることになったけど特にやることもないなーなんて駅まで歩いていた時だった。普段なら無視することの罪悪感は抱えつつもその場を早歩きで立ち去るくらいのガードの固さは持っていたはずなのだが、知り合いからの言葉、さらにはこの暑い中でのアイス…二つ返事でついていく以外の答えは無かった。しかし、すごく居心地は悪い。学校近くの公園、雨除けみたいな少し屋根のある場所。古びた木のテーブルとアイスを前に向かい合って座る私たち。平日であること、時間が時間で日照りも強いことから人はほとんどいない。
「…先輩の分は無いんですか?」
「俺甘いもん苦手やねん。」
「……そうですか。」
この人は何がしたいのか?部活がなくなって暇になったのは一緒だとして、普段の部活でもあまり会話を交わさない私たちの関係性でなぜ誘ったのだろう。学校と駅の間にあるただ一つのセブンイレブン。アイスのコーナーに直行した私は、ガリガリしたアイスや爽やかな一文字のアイスあたりを眺めていた。そんな私を見て先輩は柔らかく笑い、ちょいちょいと手招きして普段選択肢にないハーゲンダッツのゾーンの前で「こん中やったらどれが良い?」なんて言うのだ。最初は遠慮して「大丈夫です!」なんて首を振っていたけど先輩は全く折れなかった。じゃあ、ありがたく…とバニラを指差したらすぐにケースを開けてレジに向かったから驚いた。
本当に何がしたいんだろう。時折散歩にやってくる犬に目線を移しては微笑み、それ以外は常にアイスを食べる自分を見ながら嬉しそうにしている。
「あの…なんでアイス奢ってくれたんですか。」
半分ぐらいまで食べ進めたところで我慢できずに聞いてみる。本当に意図が分からない。
「あんな、俺さっきも言ったみたいに甘いもんそんな好きちゃうねんか。でも暑いしアイス食べたなって、でもまるまる一個は無理やなーって思って。諦めるかーって思ったら甘いもん大好きでお馴染みのかわいい後輩ちゃんおったからこれはチャンスや!って。」
「…はぁ。」
「あ、ごめん。スプーン一緒とかあかん人やった?」
「や、それは大丈夫です、けど…」
「なら、それ一口ちょーだい?」
こてん、なんて首を傾げて、その綺麗な顔を最大限活用して甘えたように言ってくる。この人は私が断るのが苦手なことを知っているから相当タチが悪い。アイスを渡すことは良い。もちろんこの人が買ったのをいただいてるんだからあげたくないとかそこまで強欲ではない。スプーン一緒なのも良い。友達とかも全然するし気にしない。ただ、"この人と"というのが問題なのだ。この人はどこまで知っている?どこまで知っていて私を誘った?私がこの先輩を好きだというのは、同じ部活なら先輩後輩関係なくみんな知っている。おそらく、この好かれている本人も。
「はい、どうぞ。」
少し水滴のついた容器をすすすと目の前に差し出すと、ありがとうとそれを受け取る。そして、さっきまで私が食べていたスプーンでバニラアイスを掬い、綺麗な形をした口に運ぶ。
「んー、冷た!生き返るわー。はぁ、ありがとうな?」
「一口だけで良いんですか。」
「うん、甘いしこんだけで十分。それに、そっちが食べてるの見てる方が楽しい。」
「…なんですかそれ。」
この意地の悪い先輩からアイスの容器を取り返し、何事もなかったかのようにまた食べ進める。きっと私の顔は耳まで真っ赤だろうけど。
またね
最後の日、自分は確実にまたねって言った。またねって言えば、また会いたいって思いが伝わると思ったから。いつもは目も見ずに雑にじゃあとだけ告げる自分が、わざわざまたねなんて言ったのだから、今世紀最大にデレたんだから、少しは感動の別れを演出できたと思っていた。そしたら、あっちも「もうしばらく会えへんとか寂しいわ。」なんて涙目で手を振ってくれた。そんなんめっちゃ嬉しいやん?当たり前に気持ちを汲み取ってくれたと思っていた。なのに、あれから半年間も連絡すらよこさないなんて何事?
小学校2年の夏、大阪から転校してきたサラサラの髪の少年とは、驚くことにそこから小学校、中学校、高校、大学と全て同じ進路を辿ってきた。その子が話す関西弁がついうつってしまうほど長い時間を過ごしたくせに、「寂しい」「浮気せんといてな?」なんて甘い言葉をかけてきたくせに、この現状は何だ。というか、浮気なんて以前に、付き合ってほしいとすら言われてないんですけど?それをその人に伝えたら、「だって俺らもう結婚してるようなもんやん?」と笑いながら返してきたので自分から話を流した。本当に、こいつはいっつもそう。まるで恋人に向けるような顔をして好意を仄めかす言葉をかけてくる割に、おちゃらけた態度で決定的な言葉はくれない。だから、いつまで経っても冗談の域を出ない。一度でいい。ただ一言でいいから、その薄ら笑いをやめて真顔で好きだと伝えてくれたら、自分も同じだと言ってやるのに。
散らかった部屋ではぁ、と大きなため息をつく。そんなことをしても「幸せ逃げるで?」と頭を撫でてくれる金髪野郎はもういない。ふとそいつとの最後の記憶を反努しているうちに気がついた。新幹線の駅まで見送りに来た、彼の最後の言葉。
「もうしばらく会えへんとか寂しいわ。はあ、元気でな。」
またね、って言われてないじゃん。
なんだか最近具合が悪い。一応仕事はいつも通りこなしているけど、ちょっと集中力が持たない感じ。夜も悪夢ばかり見てあんまり眠れないし、食欲も減った。月に1、2回のいつもの母からの電話で心配されるぐらいには、体調が良くないのが丸わかりだったらしい。最近忙しくて...まぁ、大丈夫!なんて笑ってごまかした電話から一夜あけた今日。土曜だから早く起きなくて良いのに、いつもの時間に目が覚めた。食欲は無いけど何か口寂しくて無印で買ったビスケットをかじる。あぁ、これ...今は思い出したく無い人が好きだったやつじゃん。見た目も全然違うし、得意なことも全然違うのに、いつしか食の好みが似て、趣味が似て、言葉を交わさなくても大丈夫な安心感が生まれていたはずなのに。なんで連絡してこないの。会いたくないの。話したくないの。もしかして、いなくなったらいなくなったで意外と普通にやれてる?あの「やっぱ一緒におったら一番落ち着くわ〜。」は嘘だった?それか、誰にでも言える感じ?自分と違って社交的だったもんね。大学入って髪染めた途端にぐっとその見た目のチャラさもかっこよさも増したもんね。もしかして、あの「浮気せんといてな?」はもう違う子が言われてる?自分みたいにはいはいと適当に受け流すんじゃなくて、純粋に照れたり、そっちも浮気しないでよなんてかわいく返せてる子がいる?ねぇ……本当にあれは冗談だったの?
スーツで疲れた顔をした自分の目の前に来たあの長身は、アイドルみたいな顔をした子の肩を抱いて言う。「え、まさか本気にしとったん?いやいや、ちゃうやん。俺らやで?」なんていっていつもみたいにその綺麗な顔で笑う。最近よく見る悪夢。起きている時までその夢に苦しみたくない。なのに、口の中の優しいビスケットの味がわからなくなるほど涙が止まらない。ぼたぼたと重力に逆らって落ちては着替えるのも億劫だったグレーのパジャマの色を変える。
その時、玄関の鍵が開いた。そのドアを勢いよく開けた本人は、自分を見るなり顔を顰めた。
「元気でなって言ったやん。」
靴を脱いでずかずかと歩いてきては、まるで場所を知っていたかのようにテーブルの上のティッシュを取り出してちょっと強めに自分の目の周りを押さえる。その遠慮のない力加減は夢でないことを嫌でも分からせた。自分よりも悲しそうな顔をしているこの人の前で泣いたのは何年ぶりだろうか…なんて考えながらそっと自分よりも上の位置にあるサラサラの黒髪に触れた。
「なんで…」
「当たり前やん。そっちだけ就職な訳ないやろ。俺やって頑張ってんねん。」
ブリーチを四年間続けていても傷んでいない髪は、窓から差し込んできた日差しを受けてその綺麗さを主張していた。
「てか、そっちやってこんな時間に起きてるなんて思わへんかった。」
あぁ…確かに。いつも大事な用事の時は朝が強いことだけが長所だと言うこの男に電話をかけてもらっていた。社会人になって自発的に起きるのを強制させられるようになってからは、夜どれだけ寝るのが遅くても大体間に合う時間に目は覚めるようになった。会っていない間に変わったのは、二人とも一緒だったのだ。
「なんで来たの?」
「お母さんからLINEもらってん。体調悪そうで心配や〜って。そんなん行くしかないんやん?」
実家に預けていたはずの合鍵を見せびらかすように揺らした人は、そう言って顔にはいつものあの笑顔を浮かべた。自分は、願うようにその声を絞り出す。
「…なんでよ。」
今だ。今言ってくれたら許すから。お願いだから、今…
「そりゃ、好きやからに決まってるやん。」
泡になりたい
「だってさー、あの人が飲むビールの泡になりたいって言ったら引くっしょ?」
「え、引く。」
「そう。だから素直な気持ちは言えねーの。」
「それよりさ、もっとマイルドなやつあんじゃん。普通に付き合いたいとか、好きですとかさ。そういうのでいいじゃん。」
友人はそう言ってあの人が好きなメーカーのビールに口をつけた。付き合いたい、好き…うーん。確かに、アキネーターに「その人と付き合いたいですか」と質問されたら、迷いつつも「どちらかといえばはい」を押すかもしれない。好きはもちろん好き、なんなら大好きだって答えられるけど…それがなんかそういう意味の好きなのかと聞かれると首を傾げる。なんだかなーと思いつつ、炭酸さえ飲めない自分は抹茶オレを味わった。
「うーん、自分はあの人が食べる抹茶アイスになりたいかな。」
「…なんで?」
「だってさー。お酒得意じゃないのにわざわざ一緒に居酒屋来てくれるってだけで嬉しいのにさ、抹茶アイス食べてる時が一番幸せそうにしててかわいいから。」
「え、あんたは甘いの好きじゃなかったでしょ。」
「うん。甘いの苦手。でもあの人が喜んでくれるんならすっごい甘いやつになりたいかな。」
「はいはい。そうですか。」
自分から何にでもなれるならどうする?なんて聞いてきたくせに興味なさげにビールに口をつけるからこっちも負けじとビールを飲む。話題はいつも通りあの人のこと。酔うと9割は惚気てしまうのだが、呆れながらも聞いてくれる友人に感謝だ。惚気、なんて言っても実際には付き合っていない。だって、付き合ってしまえば、否が応でも相手を自分の欲望の対象に見てしまう気がするから。自分はそういうんじゃなくて、もっと、こう、なんかただ一緒にいたいだけで…みたいな良いことを言いたかったのにお酒で頭が回らず結局違う話に頭が持ってかれた。
本当何でもいいから付き合えよ。めんどくせえわ。なんで間に一回自分挟むの?あとほとんどおんなじこと思ってんだから素直にその気持ちを伝え合えよ。勝手に泡にでもアイスにでもなっとけ。
8月、君に会いたい。
夏休みとは名ばかりの登校日、宿題の進捗を確認しながら他愛もない雑談したあの教室でのこと。下敷きで顔に風を送っても、ただ熱い空気が移動してくるだけで蒸されてしまいそうだった。なかなか効かない空調に対してイライラして、夏なんて大嫌いだと呟く自分に対して、横にいた君が口を開いた。
「えー、俺8月生まれなのに。夏嫌いとか言わないでよ。」
なにそれ、わがまますぎると二人で笑い飛ばしてから、何事も無かったかのように違う話を始めた。きっと冗談のつもりで言っていたのだろうし、そんなことを言ったのも忘れるぐらいの軽いノリでの発言だっただろう。だけど、自分にとっては違った。なぜかその言葉を言われたその瞬間、今まで友達としか思わなかった君が、とても愛おしい存在に感じた。きっと熱に浮かされて正常な判断がつかなかったのだろうと一人で納得したものの、その熱はずっと冷めやることは無かった。
あの夏から何年だろう。1、2…と指折り数えて考えてみたが、自分の歳のとり具合に嫌気がさしたのでやめた。なんにせよあれからだいぶ経ったわけだけど、あの君とは、一応まだ連絡を取り合っている。学生の頃ほど頻繁に会ってはいないものの、時々LINEでやりとりはするし、お正月には年賀状だって来る。元気かな、連絡しようかなと思う度に、どうしてもその文字を打つ手を止めてしまう。連絡をとっても、会っても、あの頃と同じように友達としてうまくやれるけど、そんないかにも友達な行動をする度に、自分の心が少しずつすり減ってしまっていることからは目を背けることができなかったから。それでも、自分から送らないくせに、君からの通知があると心の底から嬉しくて、心が荒んだ日には決まって君の年賀状を取り出してきてああやっぱり君の字は汚いななんて笑いながらずっと眺めてしまう。不器用で、勉強は嫌いで、わがままで、純粋な君。
毎年、あの日と同じ7月の最終日に、目を閉じると現れる君。あの日と同じ熱気の中で、夏嫌いとか言わないでよと拗ねる君に、うんと頷いて手を伸ばす。そっとその髪に触れて、そのまま頬に手を添えたところで夢は終わる。所詮夢は夢で、自分がしたことのないことを映し出す想像力には限界がある。目を開けたら見える無機質な自宅の天井にも、枕元に置いてあった携帯にも、やっぱり君の痕跡は無い。もう一度目を閉じる。8月、君に会いたい。