涙
「別れろよ。」
「むり、付き合ってないもん。」
鬼のようなLINEが入ってたから何かと思って来てみれば、またあのクズの話題。既に酔いが回っている彼女は机に頭を突っ伏していた。付き合ってないから別れないなんてどんな頓知だ。
「問い詰めたの?前に女といたこと。」
「うん…はぐらかされたけど。」
また一口グラスを煽るからそろそろ水にしろと自分のお冷を押し付ける。グラスを替えたことに気づかないほど酩酊状態ではないようだが素直に水を飲むようになった。
「大体さ、嘘つくの下手なんだよねあいつ…すぐ目泳ぐし、へらへらしてさぁ……でもさ、そんなあいつのペースにのまれてへたくそな嘘信じようとする自分がバカすぎてむり…」
ついには泣き出してしまった。もうこうなったら自分の声は耳に入らないだろう。瞼が重くなってきている彼女に黙って目をやる。早く縁を切ればいいのにと思う。さっさと別れて早く次を探せ。ドラマなんかだと自分がもらってやるみたいな流れがあるがそれは残念ながらできない。彼女はあくまで友達。自分とは違うところで幸せになってほしい友達。だから、自分はマスカラの滲んで黒くなった涙をおしぼりで優しく拭いて、閉店までの数時間を寝かせてあげることくらいしかできない。彼女のこの涙の跡が綺麗に消えて、真っ暗な闇から早く抜け出せますようにと願った。
小さな幸せ
私にとって小さな幸せってなんだろう?なんか恋愛ハンドブックみたいなので小さな幸せに気づけるのがイイ女って聞いたから、時間もあるしここらでちょっと考えてみようかなーと思った。何があるかなー…あ、最近通販で届いた服、レビューが無くて不安だったけど写真通りでかわいかったこととか?んー、でも今後のお気に入りに入るしヘビロテするつもりだから結構大きい幸せかも……あ、スーパーで買ったポテチが10%増量だったこととか?いや、そもそもダイエットしてたからポテチ食べれるだけでも私にとっては幸せなんだよなー。あ、あとは彼氏からの頻繁なLINEがちょっと面倒だったけどその頻度が落ち着いたこととか?んー、それを幸せと言っちゃうのもどうなのって感じか。あ、あとは原作が好きな映画が公開されたこととか?いや、映画化ってなって結構テンション上がったし大きい幸せかー…あ、好きなブランドからパケが超かわいいコスメ発売されたこととか?!きらきらしてて綺麗でもうほんっとーに大好きなの。作ってる人天才!早く欲しいなー、予約しなきゃ…ってこんな気分あげてくれるんだから、これも大きい幸せか…んー、小さな幸せって難しいな。そもそもそんな幸せの前に不幸に気づいちゃう私はまだまだイイ女になれてないなー……
あー、こんな私だから彼氏にフラれちゃったのかな?超かわいい服だってデートのために買ったのに、着れなきゃ意味ないもん。ダイエットしてたのだってちょっとでもかわいいと思われたかったからなのに。映画化が決まって二人で見にいこうって言ってた映画も一人で見るしかないのかー。コスメだって、かわいいの欲しいけど、なんかストレスで肌も荒れてるし、そもそもバイトと学校以外に外出ないからあんまメイク気合い入れてないし買っても意味ないなー…LINEだって、返すの結構めんどくさかったけど来ないとこんなに寂しくなるんだなー。今は小さな幸せなんて感じられない。大好きな彼氏がいなくなった不幸さと、こんな私でも慰めてくれる大好きな親友に囲まれている幸せを噛み締めて生き抜こう。
春爛漫
桜がモチーフのお菓子がコンビニやカフェの期間限定を占拠する季節。さて、自分はというとある二択で迷っていた。バイトしている人が全員整った容姿をしているようなおしゃれなカフェ。普段なら一人で入る勇気がなくて素通りする場所に、誕生日プレゼントでもらったギフトカードを手に足を踏み入れた。そして頼むメニューを期間限定桜モチーフのドリンクか、友達と訪れた時にいつも飲んでいる抹茶のドリンクにするかの選択を迫られていた。桜モチーフのスイーツとかって見た目は綺麗だが味はいまいちというパターンが多い。大体、普段桜を食べないから桜味って言われてもどんな味か分からないし。だから大抵こういう時は定番の商品を選ぶ。よし、じゃあ…
少し高い椅子に腰掛けて窓の外を見ながら薄ピンクの液体を飲む。うん、やっぱりどんな味か分からない。けど、これでいいのだ。これを飲むということに意味があったから。最近よく話す、名前にさくらがつくあの人。名前と同じだからついつい桜モチーフの期間限定商品に惹かれると言っていたあの人との少しの話のネタになれば良い。その流れでカードありがとうと伝え、今度は一緒にどうかと誘えば、ただ抹茶を飲むだけよりも楽しくいられるだろう。
七色
パレットには綺麗な七色。赤色、黄色、緑色、水色、青色、桃色、紫色。目が眩むほど鮮やかなその発色、だけどどこか調和が取れていて不思議とどれも喧嘩していない。
「これはね、補色っていって、青と黄色とか赤と緑とか反対の色なんだけど相性が良いの!」
中学の美術で習ったようなことをまだ五歳の息子が言うのだから驚いた。よく知ってるねと褒めると照れながらも「常識だよ」と笑っていた。そろばんも苦手、英会話もつまらない、野球はめんどくさいと習い事が続かなかった息子がアトリエに通いたいと言い出した時は驚いたが、息子にしてはよく続いているし、ズル休みもしたくないと意気揚々と家を出て行ったりしていて一番楽しそうだ。考えてみれば今までの習い事は全て私か旦那が半ば強引に勧めていたものだったが、息子が自分で何かをしたいと言い出したのは初めてだった。最初は、アトリエなんて行っても将来の役に立たないしどうせすぐやめてしまうだろうと突っぱねていたがどうしてもと頼み込まれて始めさせた。五歳でまだまだ自分の意思も無いような年頃だと思っていたのに、彼はすくすくと育っている。私に今できることはなんだろう。彼の描いた絵を入れる綺麗な額縁でも探そうかな。
記憶
記憶力が良いというのは大変だ。私は人よりも長期記憶が発達しているらしく、昔の出来事でも昨日のことのようにその思い出を取り出すことができる。小学生の頃にみんなで一緒に帰った時の他愛もない話、休み時間に読んでいた本の重さ、おじいちゃん家に寄った時の畳の匂いなど、細かい懐かしいことをたくさん覚えている。記憶力が良いおかげで祖父と会えなくなった今でも鮮明に優しい声と和やかな時間を思い出すことができることはすごく恵まれていると思うが、反対に悪い記憶もずっとつきまとう。自分の名前をからかわれて息が苦しくなったあの感覚、運動ができなくて逃げ出した体育の時間、得意じゃなかったコッペパンの味、きつく叱られて涙で滲んだ視界。そんな嫌なことばかり思い出してはなんとも言えない気持ちになる。
空気を切るような泣き叫び声で不意に現実に引き戻された。まだ一歳にも満たない娘をあやし、眠りについたのを見て優しくベッドに下ろす。自分はもう親なのにいつまで子ども時代の負の感情を持ち続けなければならないのだろうか。もっと歳を重ねてボケてくるまでは忘れられないのだろうか。自分の名前のようにからかわれないように、自分みたいにならないようにと気にして何度も考え直した末に名前をつけた我が娘はさっきまで泣いていたのが嘘のようにすうすう眠りこけている。この子のこれからの記憶が良いものばかりで埋まりますように。それが私ののぞみ。願いながら布団に吸い込まれるように倒れ込んだ。