「君」という存在を失念していた。
それは遠い昔の話であって、今は声も容姿も記憶の端々から消えている。
────否、消えていると言うと語弊がある。
「むかしのままの君」が生き続けているのだ。
別れて何10年とカレンダーは舞い落ちただろうか。
季節も知らないうちに僕たちを置き去りにしただろうか。
それすらも記憶していないのに「むかしのままの君」は記憶に存在し続けている。たしかに生きている。
可愛らしくはにかんで笑う顔
考え事をするときに口許に手をやる癖
少し切りすぎて歪な前髪
どれも、僕には愛おしかった。
もう時は過ぎて互いに違う相手と共に生活をしているわけだが、こうして「思い出」として蘇る。
今も変わらない癖で、可愛らしい笑顔で笑っているのだろうか。
それはもう僕に向けられた物ではないのは承知の上だけれど。
遠い遠い、初恋の話。
君は今。
思い立って貴方にと筆を執る。
私は故郷に残り、遠く遠く、貴方が暮らす、コンクリートとネオンの森に思いを馳せながら。
長年付き添った仲なのに書き出しにいつも迷ってしまう。“お元気ですか” “お変わりありませんか” 屹度、何から始めても貴方にとっては同じだろうに
お化粧やお洋服選びに迷ってしまうのと同じように、あれでもないこれでもないと拘ってしまうのだ。
出だしが決まれば、鄙びた故郷の様子や私が変わらずに居ることをありのまま綴る。
この頃には届けたい事を飾らずに便箋に乗せられる。
ネオン街よりも美しい言葉を与えてあげられれば良いけれど、それを知らない私には到底適わぬ話ではあった。
終盤に差し掛かれば貴方が無事で健康で元気であるようにと、貴方の帰る場所はいつまでもここにあると、そう告げて締め括る。
届かない距離がもどかしい程、何よりの本心だった。
こうした遣り取りを数ヶ月往復した。
貴方からくる返事は、シンプルな便箋に少し癖のある文字、そして詩文の様な飾り気は無い真っ直ぐな言い回し。私はそれが嬉しくて堪らないのだ。そして同時に恋慕が募る一方だったのだ。
──── また少し時が経ち私は貴方を思い筆を執る。
いつものように万年筆から夜空のインクを走らせて何枚、何枚と書き綴りたい気持ちを出来るだけ抑えて。
しかしいつもは直ぐ返ってくる返事もこの時から遅れてくるようになった。
ご多忙なのだろう。
田舎と違い都会には休む偟もないのだろう。そう信じていた。
けれどもそれから、手紙を遅れど返事の頻度は途切れていく。その度私は自分の仮定した“屹度”をずっと信じている。
ついには何度送っても返事など返ってくる事も無くなった。それどころかもう故郷にすら影を落とさないのだ。
もしかしたらもう貴方は手紙の封さえも故郷の思い出も二度と開かないのかもしれない。
届かない思いが行き場を失い
封の中に閉じ込められた言葉は呼吸が出来ず朽ち果てる。
貴方はネオンの光に魅入られて、変わってしまったのだろう。
こんな寂しい想いをするくらいなら
こんな惨めな想いをするくらいなら
鋭い礫を投げて傷を付けてくれる方がマシだったのに。
【梨】
【LaLaLa Good By】
──ふと夜空を見上げた瞬間に星が流れる確率 1/200
仲間たちと逸れたたった一筋の流れ星を
偶然目にする夜からの祝福
──今、深く愛情を注ぐ人と出会う確率 1/50,000
生涯で出会う三万人の中からたった一人の貴方を見つけた。
深い愛情を知った唯一無二の運命
──まだ名のない美しい羽根の野鳥を見付ける確率 1/10,000,000
地球で羽ばたく一万種の生命。まだ図鑑にも載らない一羽を目にする
新たな項目と歴史を築く奇跡
──見知らぬ星からやってきた異星人に出会う確率 1/100,000,000,000,000
存在の可能性が天文学に記された異星人との交流。
無に近い偶然性の出会いは一瞬の神話
私たちは数多の奇跡と出会いを繰り返して生きている。
世界の鼓動や歌を聴きながら、同じように呼吸をする。
幾度と「はじめまして」と「さようなら」を折り重ね
何れ来るその終わりをまた迎え入れるのだろう。
「しょうのない人!」
愉楽が声帯を揺らしたかのようにくすくすと笑う彼女。
揶揄されてはとある1つの事実を隠さなければならなかった。
「その言い分はあんまりだな。」
「ごめんごめん!」
いつも彼女に任せきりにしていた料理をふと思い立ち担おうとしたのだ。
早い話が、俺が拵えた料理の出来と結果は言うまでもない。
── 数時間前の事、厨に入った。
普段酒類やつまみ、彼女が留守をする際に作り置いてくれた食事を取るくらいしか用事がないのだ。
何処に何があるか……などわかるはずも無い。
火は使える。然しその“使える”は湯を沸かす程度の物。
そして次に料理の手順だ。揚げ焼き鍋に油を敷いて、食材を入れて、炒める……雑誌に載っていた大雑把な流れだけは頭の引き出しにある。
食材は普段彼女の手料理を食している身故に何となくは把握していたのだが、切り方、使用する調味料、知らない事が多すぎた。もはや調味料という概念すらあったのかどうか危うい。
どうやら帰宅をして厨から何か燃えるような匂いがしたらしく、火災を心配して駆け寄った彼女にほんの少し叱責を喰らった。
「あなた一体何を…?!火事にでも遭ったのかって心配したじゃない!」
珍しく声を荒らげた彼女は揚げ焼き鍋に載った無惨にも消し炭と化した食材を一瞥し状況を把握したらしい。
「……あぁ、すまない。……つい腹が減って。」
「腹が減ったって夕餉は食卓に作り置きしていたでしょう?」
「……それも全部食べた上で、だ。」
「まあ!」
この一連の流れを通し、冒頭の台詞を吐かれた訳だが。
── 彼女は消し炭の後処理をして、それから夜食を拵えてくれていた。呆れたような顔で「今度から作る量を増やさなきゃかしら」なんて呟いて、小料理を幾つか食卓に並べている。
「でも一体どうして料理なんかを?白米は炊いてあったはずなのに。」
それを問われるのは隠していた事実を暴かれてしまうのと同じだった。どうにも彼女に嘯き続けるのはどんな些細な理由でも心苦しい。
「いや、なんだ、その ──……お前の為に食事を作ってやりたかった。」
「……私に?」
彼女の硝子玉のような大きな目が更にまあるく開かれてこちらをじっと見詰める。それから直ぐに長い睫毛により狭められ、また、愉楽が声帯を揺らしていた。
「あなたったら、どこまでもしょうのない人なんだから!」
そう言う彼女の仄かに紅が挿した頬がひどく愛しく、手に負えないのはこちらのほうだ、なんて胸裡で独りごちて。
『どこまでも』
夙に君がよく口にする台詞があった、と思い出す。
陽が落ちかければこの世界中の赤色は、その鮮やかさを空に返すかの如く彩度を失っていく。
軈て濃色の夜は赤、青、緑……様々な色の輪郭をまるで無かったかの様に、全ての色をなだらかにする。
まだぼんやり曖昧な境界線を視認できるのは夜に煌々と輝く星や人工的な街の灯りの仕業だろう。
──扨。
何故嘗ての記憶が蘇ったのか、という話に戻る。
言葉の持ち主は、学生時分美術室に籠りイーゼルへ向かい自己との対話をする君。
僕はオイルの独特なツンとした匂いを厭いつつも君の姿を追って…なんらかの理由を嘯いて滞在するのだった。
「ねえ、言葉から色のイメージを連想した事はある?」
筆を止める事無く君は不意に投げ掛けた。
僕は特段“美”という物に興味などなく情けないかな少し口篭ったのを今でも憶えている。
「林檎は赤、空は青……といった具合かい?」
どうやら精一杯に働かせた言語中枢から生まれた答えは君の問に対して素っ頓狂だったらしく“安直だ”なんて笑われた事も思い出す。
「例えば“嬉しい”や“悲しい”って目に見えない感情や言葉を色でイメージをした事があるかって話。」
「ああ、成程。それならば嬉しいは桃色。悲しいは青色で考えるかもしれない。」
返答を聞くなり漸く君は硬毛の筆を止めた。
「じゃあ“嘘”ってなに色だと思う?」
「……嘘、か。」
暫く考えるも答えは中々出なかった。
「私はね“嘘”は赤色だと思っているの。」
「それはまたなんで?」
「ほら、“真っ赤な嘘”なんて言葉があるじゃない。」
耳を傾けていればまた再び硬毛がキャンバス地を無理矢理滑らされ摩耗する音がしていた事に気付く。
確かに“真っ赤な嘘”は学のない自分にも聞き覚えのある言葉だった。だが、なんとなく“赤”が“嘘”に結び付かないと思ったのも事実。
「でも僕は違う気がする。生き物の血液は赤いだろう?……生きている事まで、嘘のような感じがして。」
「そう。…私達の身体中には真っ赤な血液が行き渡って生きている。それは真実なのに“嘘”を宛てがわれた赤。──私はその皮肉っぽさが好き。」
「……なかなか僕には難しい話だ。」
君はいつもの君だったし、この思考回路も君らしい物だったのに何故か胸の奥深くを突き刺すような出来事だったのだ。
夕陽を喰らい世界中の赤色を摂取する夜、そんな夕方と夜の交わる所はどこなのだろうか。あの日の君と僕は十字路を全く逆方向に踵を返してしまったのだろうか。
夜明けにまた鮮やかさを取り戻し、太陽を浴びる赤い林檎の実をぼんやりと見遣りながら今日という変わらない日常にまた再び、この記憶を忘れるのだった。
『未知の交差点』