創作「一輪のコスモス」
写真立ての中で微笑む妻の隣に、花瓶を置く。これは私の新たな日課となったものの、まだ慣れない。 ゆらりと、花びらが揺れる。さっき開けたばかりの窓から見える庭は、妻が遺していった秋の花が満開である。
妻は花が好きだった。花屋にあるような花も好きだったが、道端に咲いている小さな花をことさらに好んでいた。だから、散歩の最中に見かけると、その場にしゃがみ込んで、優しく話しかけていた。妻がそうして声をかけると、花は決まって嬉しそうに葉を揺らしたのだった。
ただ、私は妻がいなくなってから気づいたことがある。道端の花は私が小さい声で話しかけても、葉を揺らすことはない。そのため、妻は何か別のものに話しかけていたのではないかと。その気づきを確かなものにするように、このところ家の中に何かの気配がするようになった。
始めは、いたちか猫が入り込んだのかと思っていたが、どうやら違うようだ。ならば、妻が化けて出てきたのだと思って試しに、
「茄子がたくさん採れたんだ。箱に入れてあるから、ちょっと焼いてくれないか?」
と、冗談のつもりで言ってみた。 もちろん、室内はシーンと静まりかえっている。それはそうだと、静寂の中心で私が椅子を引く音だけが響いた。
ぬるいお茶をすすりながら、写真を眺める。すると、白い花びらが目にとまった。
「あれ、そこには置いてないはずだが。」
花瓶に活けた花とは別に、一輪のコスモスが写真の前に置いてあった。妻と私のお気に入りの花だ。しかし、一体誰が置いていったのだろうか。悪い気はしないが、少し背筋が寒くなる。
ざわざわと庭の花が揺れた。淡い桃色と白とが折り重なる花壇に、日の光が注ぐ。輝く景色の中で、真っ白なきつねが二、三匹、飛び跳ねて遊んでいた。ほんの一瞬の出来事だった。
再び、妻の写真を見る。すると、一匹の白いきつねが写真をじーっと覗き込んでいた。それから、ちょっと私の方へ目を向けてから、庭へと駆け出していったのだった。どうやら、あのきつねがコスモスを持って来てくれたらしい。
「君には、私の知らない友だちがたくさんいたんだなぁ。」
そう言うと、妻が照れ笑いを浮かべているように見えた。私は久しぶりに庭へと出た。乾いてひんやりとした風が心地よかった。
(終)
「秋恋」
秋恋、秋茄子みたいなものだろうか?
恋にも旬があるものなのか?
恋の歌は年中あるうえに、ドラマや映画も山ほどある。それを踏まえて、秋の恋と言うことか。
専ら食い気に走るのは、食欲の秋のせいにしておこう。ああ、君が焼いた茄子が恋しいなぁ。
創作「愛する、それ故に」
けたたましいアラームの音と共に、赤いランプが明滅する。逃げ惑う白衣姿の職員たちが、必死の形相で家族写真や論文を抱え、研究室から飛び出していく。そんな中、一人の男はその場に佇み、恍惚とした表情で、あるものを見上げていた。
男の視線の先には巨大な水槽があった。水槽の中には、サメの尾と鳥の翼をもつ人型の生き物がいた。その生き物はまさに巨人だった。そして、ついさっきまで眠っていた生き物は、何の前触れもなく目を覚まし、背中や頭に接続された頑丈なコードを自ら引きちぎったのだった。
それから、その生き物は水中をしなやかに泳ぎ、勢いそのままガラスに体当たりした。ピシッと水槽に亀裂が入る。見上げていた男はわずかに後ずさりしたものの、視線はなおも生き物に釘付けになっていた。
ごうん、ごうんと幾度も水槽にぶつかる音が、研究室に響き、ついにガラスが砕けた。大量の水が溢れ出し、男を飲み込む。しかし、なす術なく流される男を包む大きな影があった。
しばらくして、男は研究室から少し離れた空き地で、意識を取り戻した。傍らには、あの生き物がいた。生き物は、辺りを警戒するように、鋭い視線をどこかへ向けている。男が何か言おうとして、激しく咳こんだ。その様子に気づいた生き物が、男を見た。
「ああ、君が僕を助けてくれたんだな。」
そう言って、男が微笑んだ。すると、生き物は不思議そうに男を眺めた後、ぎこちなく口角を上げ、目を細めた。そして、再び真剣な表情で辺りを警戒するのだった。
「ありがとう。僕を助けてくれて。」
やはり、男の言葉は通じていないらしかったが、男が自力で立ち上がるのを見ると、生き物は安心したように表情を緩めた。それから、力強く地面を蹴ると、あっという間にはるか上空へと昇って行った。
男が空を見上げていると、朝焼けの向こうから、水槽から逃げた生き物よりも一回り小さな生き物が、一体飛んで来た。2体の生き物は互いに呼び寄せるように声をあげ、ひしと抱きしめあった。
そして、自由を喜ぶように2体の生き物は空を翔けて、やがて太陽に向かって飛んでいったのだった。
(終)
創作「渡り鳥」
とある日の朝、校舎の軒先で素早く飛ぶ小鳥が、ひっきりなしに出入りしていた。
青みがかった黒い背と白い羽毛に覆われた腹、そして、赤いスカーフのような首の模様が特徴的なあの鳥は、ツバメである。
もうそんな時期かと、私は軒を見上げた。思った通り、すでに巣ができあがっていた。そして、なんと雛までいるではないか。
五羽の雛たちは親鳥が巣へ近づく度に、黄色いくちばしを目一杯開けて、必死に餌をねだって鳴いていた。
あの雛たちも大人になれば、南の国や暖かい地域へ渡っていくのだろう。そして、再びこの巣へと帰って来るはずだ。
何度も繰り返されてきた、小さくて壮大な命の営みが、この軒先でも起こっている。その事実に私の心がわずかに震えた。
そして、どうか健やかに生きてくれと胸の内で呟いて、私は校舎へと入った。
おわり
「航海」 ※「わぁ!」
冬晴れの大海原を行く船の羅針盤は、常に僕らの夢へと向いている。風のいたずらで起こる大波、突然の大嵐。僕らを包む森羅万象の一つ一つが、新たな進路を広げてくれる。
時に、仲間に嫉妬し、敵が現れ、憂鬱という名の先が見えない手のひらの宇宙をさまようこともある。どうか、その時は星のかけらの光を頼りに、無音の暗闇を抜け出して。願わくばあの夢のつづきを思う、君の姿を見せて欲しい。 それが無理ならば、今は瞳を閉じて動く力が戻るまでゆっくり休んで。
しかし、君は長い旅路の束の間の休憩に焦り、港に止まった船を見ては自分を責め、悩むだろう。何度も明日へ向かって歩く、でもまだその時ではない。向かい風に君は転び、迷子の羅針盤はぐるぐると狂う。やがて日の出が訪れる。海面は凪いでいる。
わぁ! 追い風だ、今こそ帆を上げろ!
これまで流した透明な涙をそっと拭い、
力を込めて舵輪を握る。
後は、古今東西どこへ舵をきるのかは君の自由だ。
手にした未来への鍵に合う宝箱を探すのも良い。
幸せとは何か追い求めるのも悪くない。
僕の言葉が、君へ届くかどうかわからない。だけど、僕はまだ見ぬ景色を目指す航海の仲間として、ただひとりの君へ終わらない物語を紡ぐよ。