ストック1

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8/6/2025, 10:57:35 AM

「またね」

お客さんのひとりがそう言って店を出た
彼は私の店をよく利用し、ブラックコーヒーを必ず頼み、食事と会話を楽しんで帰っていく
その時、必ず私に「またね」と言ってから店をあとにするのがお決まりだ
初めて来た時もそうだった
注文したブラックコーヒーを飲み、料理を食べ、一緒に来た人や他のお客さん、それから店主である私との会話をしばらく楽しむと、「またね」と言って帰っていった
それから少なくとも、週に三度は必ず私の店に来るようになり、今に至るというわけだ
この店のメニューや、雰囲気、他のお客さんのことをそれほど気に入ってくれたなら、こんなにありがたいことはない
この人は、変わらずにずっと、私の店が終わるまで通い続けてくれる
そんな予感がしていた

ある日、いつものように来店し、いつものように食事と会話を楽しんでいた彼だったが、急に悲しそうな笑顔で話し始めた
どうやら事情があって、遠くへ引っ越すことになったらしい
この店に来られるのも、今日が最後だとか
寂しさを感じながらも、人生は様々なことが起きる、そういうこともあるさ、と私は思った

「いままで、ありがとう
ここは僕の癒やしだったよ
それじゃあ、さよなら」

彼は他のお客さんや私に見送られながら、感慨深げに店を出た
「またね」とは言わずに
私は、気づいたら彼を追って店を出ていた
彼は少し驚いた様子でこちらを見る
私は願いを込めるつもりで言った

「また、お待ちしてます」

彼は微笑むと、背を向けて手を振りながら去って行った

その後も私は、相変わらず店を続けていた
彼はもう来ることはなかったが、他のお客さんとの交流は続いている
前と変わらず充実した毎日だ
今までどおり
彼が来ないこと以外は何も変わらない
お客さんに食事を提供し、お客さんの日常の話を聞き、会話を楽しむ
これまでもずっと、私は一息つける場所として、この店をやってきたのだ
そして、彼がいなくなってから何年か経ち……
ある日、店のドアから懐かしい人が、懐かしい顔を覗かせた

「やってる?」

あの日、引っ越してしまった彼だった
あのあと、しばらくは安定した生活を送っていたものの、途中から色々なことが目まぐるしく起こり、環境が変わって、再びこの地域へ帰ってくることにしたそうだ
本人によると、最後の方は激動という言葉がふさわしかったとか
引越し先へとどまることもできたが、ふとこの店のことが頭をよぎったという
またこの店に通いたくなって、戻ってきたのだと、嬉しそうに語った
嬉しいのは私も同じだった
彼はこの店をそれほど気に入ってくれていたのだ
それを聞いた瞬間は、店をやっていて最も幸せな瞬間だったと思う
彼は変わらず、ブラックコーヒーを頼み、食事と会話を楽しむと、店をあとにした

「またね」

以前のように、そう言いながら

8/5/2025, 11:19:39 AM

私は相当ヤバい
かなりヤバい人間だという自覚がある
自称ヤバいやつというのはいるけど、私の場合、実際ヤバい
これは間違いない
周りの友達も、ドン引きだった
なぜヤバいか
それは私に、泡になりたい願望があるから
別に人魚姫のごとく泡になって消え去りたいとか、そういうことではなく
実は、私は自分のしてきたことを水の泡にすることに快感を感じる
綿密に立てた計画を実行し、最後の最後、くだらないことで台無しにするとか
難しいチャレンジを達成する直前、凡ミスで失敗するとか
長い時間費やした作品を、うっかり廃棄してしまうとか
そんな、普通ならショックで寝込んでもおかしくはない状況
それがとても気持ちいい
この感覚は何ものにも代えがたい
当然だけど、わざとの失敗は気持ちよくない
快感を得るためには、達成のために真剣に取り組んで、万全を喫し、最善を尽くした上で台無しになる必要がある
だから、失敗に失敗することが多い
ごく稀にしかこの気持ちよさを味わえない
大抵は、泡になることができなくて、悔しい思いをするのだ
失敗したとしても、あと一歩のところではないことだって多々ある
私は、まず求めていない失敗をくぐり抜け、さらに成功を回避し、ここぞという時に大失敗をしなければ心がスカッとしない人間だから、相当面倒くさい
でもその分、うまく台無しにできた時はもう、この世のものとは思えない素晴らしい感覚に浸れる
面倒くささを乗り越えるだけの価値が、水の泡にはある!
私は最終的に、自分の幸せな人生を、幸せになるための努力を最大限した末に棒に振ることを目標としている
人生なんていう、最も大事なものが台無しになる様を思い浮かべただけで、興奮して過呼吸になりそう
その話を友達にしたら、滅多にしないとても真剣な表情と声で止められて、説教されたけど
でも、もし叶うなら……味わってみたい
自分の人生が水の泡になる快感を……

8/4/2025, 11:17:02 AM

ただいま、夏。
ようやくこの季節に帰ってこれた。
私はこの季節が好きだ。
肌に刺さる日光、体を痛めつける酷暑。
油断したら命に関わる危険な季節。
それでも、この夏が一番好きだ。
秋、冬、春と季節を重ねていったけど、どの季節もしっくり来ない。
夏よりも過ごしやすいはずなのに、これらの季節は肌に合わなかった。
この耐え難い暑さにうんざりする人は多い。
それはそうだ。
特に、このあたりは冬の寒さはそんなに厳しくない。
雪が降っても、豪雪とは程遠い。
だから危険度の高い夏を嫌うことはごく自然の流れ。
それでも私は夏がいい。
別に寒がりなわけでも、暑さに快感を覚えるわけでもないのに。
昔から私は夏に安心感のようなものを覚えていた。
なぜなのか、説明するのはとても難しいのだけれど。
でも最近、なんとなくその理由がわかってきた気がする。
私がこれだと思う理由。
夏には明るいイメージがあるのだ。
とても明るいイメージが。
私は暗いところが好きじゃない。
寝る時も、本当は電気をつけて眠りたいくらいに。
他の季節が暗いというわけじゃない。
ただ、より明るいイメージのある夏という季節に魅力を感じているのだと思う。
暑さに苦しめられても、それを超える安心感がある。
だから、この夏へまた帰って来ることができて、とても嬉しい。

8/3/2025, 11:21:45 AM

気まずい
非常に気まずい
とっくにぬるい炭酸と無口な君
時間稼ぎのためにさっきから炭酸を飲むけど、冷えていないせいでちっともおいしくない
もうひとりの友人が戻ってくるまで、あとどれくらいかかるのだろう
君も無口だけど、僕も無口だ
そして、僕たちはそんなに仲良くない
お互い、何を話していいかわからないのだ
さっき席を外した友人がいて初めて、会話が成立する体たらく
僕も君も、一言も喋らない
天気の話でもしようか
いやいや、話題がありませんとアピールするようなものだろう
やめておいたほうがいい
ああ気まずい
気まずさをごまかすように、相変わらずぬるい炭酸をチビチビ飲む
頼むから友人が戻る前に尽きないでくれよ
横目で君を見ると、ポカンと口を開けて、虚空を見つめている
けど、組んだ指で自分の手の甲を無意味にパタパタと不規則に叩いているあたり、君も気まずいと感じているんだろうな
こうなってくると、くだらない用事で一時的に席を外した友人が恨めしい
あいつはこうなることを理解しているはずなのに、どこで油を売っているのか
そろそろ炭酸をチビチビ飲むのも限界だ
そう思い始めた頃、君から状況を打開する素晴らしい一言が発せられた

「あの
ちょっと、戻るのが遅いから見てくるわ」

「え?
あ、ああ、頼むよ」

君の背中を見送りながら、僕は安堵した
気まずく待つくらいなら、一人の状況を作ったほうがお互いのためだ
僕はぬるい炭酸を飲むのをやめて、伸びをしたあと、すぐにスマホを出して動画を見始めた
あとはくつろぎながら、気長に待っていよう
なお、後日友人に文句を言ったところ、二人にすれば仲良くなるだろうと思い、わざと席を外したと白状した
言ってはなんだけど、結果的に無意味な気遣いだったな
ただ気まずくなっただけだから

8/2/2025, 11:12:15 AM

期待は全くしていないんだけど、ふと思いついて、なんか面白そうだったので、やった
瓶詰めの手紙を海に流すやつを
どうせ誰のもとにも届かないだろうし、届いたところで、こんな怪しい手紙に書かれた連絡先に対して、なにかアクションを起こそうだなんて思う人はいないんじゃないか?
とりあえず、日付とちょっとした自己紹介、興味があったら連絡してみたいな文を載せて、海に向かってぶん投げる
波にさらわれた手紙は、すぐに見えなくなり、僕はそのまますぐに帰路についた
返事は来ないだろう
でも、今はそういうことがしたい気分だったのだ
これが悪行だとしたら、魔が差した、と表現すると思う

数年後、僕は手紙のことなんて忘れていて、思い出すきっかけもなく過ごしていた
しかし、ある日自分の机を整理していると、なんとなく覚えのある文章が書かれたメモが出てきた
ああ、これは前に書いた、海に流した瓶詰めの手紙の下書きだ
すぐにそう思い出す
そんなタイミングで、僕の携帯に電話がかかってきた
知らない番号
もしやと思った僕は、電話に出た
それがまずかったのかもしれない

「突然すまない
私は君の瓶詰めの手紙を受け取った者だ
君の熱い思いを受け取り、その願いを叶えたいと、連絡させていただいた」

心臓が飛び跳ねて、興奮した
なんてことだ
あの手紙を受け取った人が現れたぞ!
それにしても、僕の願いを叶えるって、無理に決まっているじゃないか
自己紹介ついでに書いたけど、あれはネタだよ
たぶん、僕に付き合ってくれているのだろう
一種の遊びというわけだ
なら、僕も遊びで返さなければならない

「あの手紙、読んでくれたんですか!
ありがとうございます!
ところで、僕は願いを書きましたけど、そんなこと、本当にできるんですか?」

「もちろんだ
でなければ、私は君に電話をかけていない」

力強い言葉が返ってきた
迫真の演技だな
俳優でも目指してるんだろうか
そういったことに協力できるなら、僕も手紙を海に投げたかいがあった

「大体でいいので、君の住んでいる地域、もしくは、簡単に行ける地域を教えてくれないか?
君の願いを叶えたい
当然だが、報酬などについて、君が気にする必要はない
私が勝手に君に胸打たれたのだ
相手に利益があるとしても、私が好きでやることに見返りは求めない」

「本当にいいんですか?」

「ああ」

「わかりました
よろしくお願いします!
じゃあ、行ける地域は……」

数週間後、僕は電話の相手と会うことになった
場所は最寄りの駅から電車で数駅のところ
その駅前で、目印となるかっこうをした男性が待っていた

「電話をくれたカーヴァーさんですか?」

「君が、手紙を流した人だね?」

見た感じ、普通の人だ
外国人風ではあるけど、日本語は流暢に話している

「さっそくだが、君の願いを叶えに行きたい
善は急げというからね
まあ、心の準備というのもあるだろうから、少し待つこともできるが……」

僕はワクワクしているので、大丈夫だと言った
こんなごっこ遊びでワクワクするなんて、いつぐらいぶりだろう
カーヴァーさんは、ついてきてくれ、と言って歩き出した
たどり着いたのは、ありふれた喫茶店
しかしお客さんも店員の人もいない
この時おかしいと思ったのだから、ここで退けばよかったのだ
なのに僕は、感覚がワクワクで鈍っていた
喫茶店の奥の方へ行くと、カーヴァーさんが止まり、こちらを振り向いた
すると目の前のカーヴァーさんが、まさに宇宙人!という姿に変身した
変身したというか、多分元の姿に戻ったのだ
僕はその瞬間、驚きとともに謎の力で眠らされた

なんとも言えない気分で目を覚ます
カーヴァーさんはどこにもおらず、手紙だけが残されていた
なんとなく、体に違和感がある時点で勘付いていたけど、手紙を一部読んで自分の身に起きたことを確信する
喫茶店にあった姿見を見る
すると僕は、僕がかつて手紙に書いた通りの状態になっていた
本当に、こんな姿になりたかったんじゃなくて、出来心というか、ニヤニヤしながらネタとして、ほんの冗談として書いたんだって

僕の頭からは猫耳が生え
さらに、ご丁寧に尻尾までサービスされていた
僕は猫耳になりたいとか、くだらないことを書きやがった過去の自分を心底恨んだ
これでどうやって生きていけばいいんだよ
いや、本当にどうすんのこれ?
マタタビという単語にすさまじい魅力を感じてるし
中身も影響されてるぞ、ヤバい
以下、カーヴァーさんの残した手紙の一部抜粋である
実際はもっと長い

「おめでとう
君は猫の特徴を備えた人間となった
私はとある星から来た、いわゆる宇宙人だ
(中略)
猫カフェというものに行ってみたら、私は彼らにある意味恋をしてしまったのだ
あのフォルム、鳴き声、気まぐれな態度、それでいて
(中略)
君の猫の特徴を備えたいという願い
私はそれに感動を覚えた
これはなんとしても猫を愛する者として叶えてあげたい
そう思った
一部とはいえ、猫そのものになるという素晴らしい夢
私の持てる技術の粋を集めて、実現させてもらった
(中略)
さあ、よい猫ライフを送ってくれ!」

何してくれてんの?
とりあえず、やり場のない怒りを、喫茶店の椅子を蹴り倒すことで一時的に晴らした
手紙の略した部分によると、喫茶店は今回のために用意したカーヴァーさんのものらしいので、別にいいだろう
ちなみに、カーヴァーさんは母星に帰ったってさ
しばらく地球には来ないそうだ
クソッ!

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