ストック1

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「またね」

お客さんのひとりがそう言って店を出た
彼は私の店をよく利用し、ブラックコーヒーを必ず頼み、食事と会話を楽しんで帰っていく
その時、必ず私に「またね」と言ってから店をあとにするのがお決まりだ
初めて来た時もそうだった
注文したブラックコーヒーを飲み、料理を食べ、一緒に来た人や他のお客さん、それから店主である私との会話をしばらく楽しむと、「またね」と言って帰っていった
それから少なくとも、週に三度は必ず私の店に来るようになり、今に至るというわけだ
この店のメニューや、雰囲気、他のお客さんのことをそれほど気に入ってくれたなら、こんなにありがたいことはない
この人は、変わらずにずっと、私の店が終わるまで通い続けてくれる
そんな予感がしていた

ある日、いつものように来店し、いつものように食事と会話を楽しんでいた彼だったが、急に悲しそうな笑顔で話し始めた
どうやら事情があって、遠くへ引っ越すことになったらしい
この店に来られるのも、今日が最後だとか
寂しさを感じながらも、人生は様々なことが起きる、そういうこともあるさ、と私は思った

「いままで、ありがとう
ここは僕の癒やしだったよ
それじゃあ、さよなら」

彼は他のお客さんや私に見送られながら、感慨深げに店を出た
「またね」とは言わずに
私は、気づいたら彼を追って店を出ていた
彼は少し驚いた様子でこちらを見る
私は願いを込めるつもりで言った

「また、お待ちしてます」

彼は微笑むと、背を向けて手を振りながら去って行った

その後も私は、相変わらず店を続けていた
彼はもう来ることはなかったが、他のお客さんとの交流は続いている
前と変わらず充実した毎日だ
今までどおり
彼が来ないこと以外は何も変わらない
お客さんに食事を提供し、お客さんの日常の話を聞き、会話を楽しむ
これまでもずっと、私は一息つける場所として、この店をやってきたのだ
そして、彼がいなくなってから何年か経ち……
ある日、店のドアから懐かしい人が、懐かしい顔を覗かせた

「やってる?」

あの日、引っ越してしまった彼だった
あのあと、しばらくは安定した生活を送っていたものの、途中から色々なことが目まぐるしく起こり、環境が変わって、再びこの地域へ帰ってくることにしたそうだ
本人によると、最後の方は激動という言葉がふさわしかったとか
引越し先へとどまることもできたが、ふとこの店のことが頭をよぎったという
またこの店に通いたくなって、戻ってきたのだと、嬉しそうに語った
嬉しいのは私も同じだった
彼はこの店をそれほど気に入ってくれていたのだ
それを聞いた瞬間は、店をやっていて最も幸せな瞬間だったと思う
彼は変わらず、ブラックコーヒーを頼み、食事と会話を楽しむと、店をあとにした

「またね」

以前のように、そう言いながら

8/6/2025, 10:57:35 AM