みかんの皮に爪を立てる。ぷつり。
そこから指を少し深く沈める。指を鍵形にしてみかんの実を引き出す。
みかんの皮がはじけて、すっきりと爽快な香りがする。
口にひとふさ含むととても瑞々しい。
この果物と同じ名前をつけた猫を飼っていた。
茶トラで、その毛色がみかん色に見えたのでそう名付けた。
みかんはよくしゃべる猫だった。
日田とこちらを見据えて、こちらへ向かって歩いてくる時にも、にゃおにゃおにゃおとしゃべっていた。
玄関に出る時はその前に立ちはだかり、しばらくしゃべる。どこへ行くのかとか何するんだとか、そう言う声音だ。過保護な親みたいな声の掛け方だった。。
帰ってくると玄関マットの上にスフィンクスのように横たわって、やっぱりにゃおにゃお言っていた。
おそらく、おそいとか、変なもん食べてくるなよとかそういう小言だったのだろう。
みかんと言う名前は、物心ついた時についていたから、由来は知らない。
おそらくみかんの箱に捨てられていてみかん色だからとかそう言う理由じゃないかと思う。
みかんは、最期も、何かたくさんしゃべってからこときれた。
最後の最後まで心配していてくれたのかもしれない。
この季節、初めてみかんを食べる時、
もう一つのみかんのことを考える。
みかん、私は今年も元気だよ
手ぶくろ。手袋にもいくつか種類がある。
指のあるもの、指のないもの、ミトン型のもの、革製のもの、布製のもの、ビニール製のもの、ゴム製のもの。
ただ「手ぶくろ」と書かれると、頭に浮かぶのは、たったひとつの手ぶくろだ。
毛糸のふわふわした、小さな赤いものである。赤と言っても、真紅ではなく、朱色。形はミトン型というのだろうか、親指だけ独立した形だ。そして、手ぶくろは手首に毛糸が縫い付けられていて、2つで一揃いになっている。
つまり大きさも可愛らしく、色も形も可愛らしい手ぶくろ。
この手ぶくろを思い浮かべる時、ふくふく、ふかふかとした毛玉のようなものも考える。
どうしてだろうかとしばし考えて気づいた。
「手ぶくろ」という言葉に「手ぶくろを買いに」という新美南吉のお話が結びついているようなのだ。
思い浮かべている「手ぶくろ」はこぎつねが買いに行った、あの「手ぶくろ」なのだ。
読んできた物語というものはこうして人の中に染み入る。
そして本人が知らぬ間に滲み出てくる。
物語は静かに人に影響を与える。
夜の中で息を吐いた。白く、凍えて見える。
指先は冷たい。手袋を持ってくるべきだった、と思う。
耳当てはなぜか忘れなかったから、耳はあたたかだ。
頬は痛いくらいの冷気に触れている。
目が慣れるまで、もう少し。
指先に息を吹きかける。ほんわずかのあたたかさで気を逸らす。
暗がりに目を凝らしている。
夜の山はあんまりにも暗く、夜と同化している。どこが山か空か、わからない。
しばらく目を凝らして、小さな白い点が浮かぶ辺りが、空なのだとわかった。
山に光るものはないから。
「星は変わらないんでしょう、ずっと」
「…星も変わるよ。あれはずっと昔の光で、もしかしたら今はもう、あそこに星はないかもしれないらしい」
「星ですら、永遠じゃないってこと?」
「まあ」
「現実って、ものすごく厳しい」
「どうだろう」
「何が?」
「変わらないことって厳しいのかなぁと思って。変われないことの方が厳しいような気がする」
「そう?」
「だって、どんな辛いことも、悲しいことも、ひとりぼっちなことも、永遠になる可能性があるってことでしょ」
「まあ、そう言われれば」
「永遠がないってことは、どんどん変わっていくってことで、変わっていくってことは、今の最悪も最低も最弱も、最小も変わる可能性があるんだ。必ず。」
「最悪も最低も最弱も最小も…終わるかもしれないとかいいたい?」
「そう思った方が気が楽だよ。終わりがないのなんて、つらすぎる」
「どうだろう…」
「この寒さの中での、星空観測だって、いつかは終わると思った方が、集中できない?」
確かに、今、ここはとても寒い。
「変わらないものはない」
「すべては変わる」
「必ず」
「すべては終わる」
「きっと」
イルミネーションは見ない。
教会にも行かない。
家族にも会わない。
恋人とレストランでディナーなんてしない。
クリスマスプレゼントを期待してソワソワしない。
お酒も飲まない。
(お酒を飲むと体が痛いから)
友達とも会わない。
ひたすらご馳走を作って、美味しく食べる。
今年のメニューは
ローストビーフ
ポテトグラタン
コーンスープ
お刺身のサラダ
買ってきたピザに蜂蜜をかけて食べた。
安上がりだけど、豪華なご馳走。
「予定はあるの?」と聞かれて、「何の?」と聞き返してしまった。
「だって、今日はクリスマスイブじゃない」と、半ば呆れたように、イズミは言う。
「帰って寝るだけかな。チキンくらいは食べるかもしれないけど。どこでも売ってるし…帰りに帰るかも」
「それだけ?」
「ケーキも食べるってこと?まあ、食べてもいいかもしれないね」
「…そう言うことを聞いてるんじゃない…」
「クリスマスの前の日ってだけだよ」
コートを着てバックパックを背負って、ドアのノブに手をかけた。
「今日はそんなに思い詰めるほど特別な日じゃない」
振り返って、イズミに向かってにっこり笑った。
「明後日にはまたここで、一緒に働くわけだし」
深いため息をついたイズミは目を逸らしながら
「確かにそうなんだけどね」と言う。
「何となく予定が入っていないのが、恥ずかしい気持ちがある」
「ふうん…ただのクリスマスの前の日なんだけどね」
「そういう風に思えたらいいんだけど」
いつものように笑い飛ばして、さよならを言う…つもりだったけれど、
最後の声音が素直に弱々しかったので、身体を向き直した。
ドアの向こうではなくて、室内の方へ。
「…素直に誘えばいいのに。残業はまっぴらごめんだけど、夜の散歩とか、モノポリーとか、夜のお茶とか、チキン食べ比べなら、まっすぐ誘われて暇なら乗るよ、誰だって」
「…チキン…買いに行くのについてきて」
「OK。どこが1番近いかな。でもまあまあ遅いから、さっさと出よう」
「30秒で支度する」
「うん」
「あと…モノポリーなぜかある、このオフィスに」
「最高」
2人で笑った。
予定がないなら、今から作ればいいよね。