いつだって届かないものに手を伸ばしている。
今日だってほら、やっぱり届かない。それでも。
昨日よりも1センチ、手を伸ばすことができたのなら。
今は、それで。
テーマ「不完全な僕」
普段立ち入ることのないバー。眠れない夜に立ち寄ってみたそこで貴方と出逢った。お酒に詳しくない私がメニュー表を手に途方にくれていると、そっと傍にやってきて、柔らかく微笑んでくれた。
見ない顔だね。ぼくはここの常連なんだ。よければ、ここのオススメのカクテルをきみにご馳走させてくれないか? だなんて。手慣れた様子。手慣れた仕草。ナンパかしら、なんて思いながらも、一人になるくらいなら、それでもいい、と彼の言葉に従った。
隣に座った彼との距離は殊のほか近く、ふわり、清涼な香りが鼻腔を擽る。甘やかなウッディムスクの香り。密やかに微笑む彼にはよく似合う。
どうやら作り終えたらしいソレを、バーテンダーから受け取り私は一気に飲み干す。度数など、どうだって良かった。きっと、どうにかなりたかった。けれど思いとは裏腹に喉を通るそれは生憎と私の喉を灼きはしない。驚きが顔に出ていただろうか。彼は静かな笑みをそっと崩した。クツクツと低い笑い声が耳朶を刺激する。夜の甘やかな森の香りと落ち着いた低い音が怖いほどに体のなかを巡るのを感じていた。
「強いお酒だと、思った? それはプッシー・キャットっていうノンアルコール・カクテルだよ。ちなみに意味は、『可愛い子猫ちゃん』だ。……甘くて美味しかっただろう? ……きみはどうにもこういった場所は不慣れに見える。お望みのものでなければ、申し訳ないが」
「……!」
図星すぎて、咄嗟に言葉が出なかった。下戸ではないけれど、普段こんな場所に、それもこんな時間に来たりはしない。この空間に彼はあまりにも溶け込んでいるけれど、私はこの場では驚くほどに浮いているのだろう。きっと、だからこそ彼は声をかけた。
「いじめすぎかな。ごめんね。可愛い猫はいじめたくなるんだ。お詫びに、別のものをご馳走しようか? 酔いたいのなら、相応のモノを見繕おう。ぼくのオススメは――」
「お詫びなら、私の好きなカクテルを頼んでもいいかしら」
なんだか悔しくなって、ジャブ代わりに、彼の言葉を遮ってみる。少し虚をつかれたように目を丸くさせた貴方は、面白そうに目を眇めてみせたあと、お望みのままに、と気障ったらしく微笑んでみせた。だから、私も精一杯の虚勢を張って、不敵に笑い返す。
「――スクリュー・ドライバーを」
そうしてみせれば、今度は、彼が言葉を失う番。スクリュー・ドライバー。――カクテルに詳しくない私だって知っている、レディ・キラーの異名を持つカクテル。できるものなら、私を殺してみせて。そんな思いを込めて、彼の瞳を見つめる。
しばし言葉を失った彼は、堪えきれないように笑い声を上げた後、くしゃり、と髪を掻き上げた。
「子猫扱いをして悪かったね。お望みとあらば――いくらでも」
近いと思っていた距離が、また、近付く。ほんのり甘いと思っていた香りは、彼の眼差しから、露わになった額から、グラスを手渡す指先から――立ち昇るようにその甘さを増して、私を長い夜の森にいざなっていた。
テーマ「香水」
今日は定時退社ができそうだ、だなんて上機嫌でいられたのは数時間前のこと。突然舞い込んだ緊急の案件に踊らされ、気付けば定時は虚しく過ぎ去り、空はどっぷりと帳を下ろしてしまっていた。
疲れた。ただただ、疲れた。最近一緒に暮らし始めた彼女にも、今日は早く帰れそう、なんて喜びのスタンプとともにメッセージを送ったというのに。
最近、ずっと残業続きだった。今日は久々に太陽の光を浴びながら帰宅できそうだなんて浮ついた心持ちでいたというのに。なんだか妙に物悲しい気持ちになりながら帰路につく。玄関の扉を開けると廊下からパタパタ、と軽やかな足音が響いた。
「おかえりなさい! たいへんだったね、お疲れ様」
「……うん、ただいま」
「……。飲み物淹れてくるね、ソファで待ってて」
顔に出ていただろうか。彼女はぼくの手からサッと荷物を取ってしまうと、手早く片付けてキッチンに向かってしまった。気を遣わせてしまった。申し訳ない。
お言葉に甘えてソファに座って待っていると、程なくしてマグカップを手にした彼女が戻ってきた。
「はい、ホットミルクティー。蜂蜜入ってるから甘いよ」
「ありがとう……」
夏なのに、ホット? と思いつつ受け取り、口にする。優しい甘さと温もりが体にスッと染み込んだ。そういえばデスクワークで体がガチガチになっていたんだった。彼女はこういうことにすぐ気付く。……ああ、敵わないなあ。
ちらりと彼女を見ると、視線に気付いた彼女はニコリと笑みを返してくれる。言葉は特にない。やることもないだろうに、何を言うでもなくミルクティーをチミチミと飲むぼくの傍に寄り添ってくれている。
湯気から立ちのぼる紅茶とミルクと甘やかな蜂蜜の香りと、彼女の穏やかな気配を感じて、そっと小さく息を吐いた。無音の世界はとてもぼくに優しくて。しおしおになってしまったぼくの心に、穏やかな雨が降っていた。
テーマ「言葉はいらない、ただ・・・」
彼女ができた。急にどうした? と思っていることだろう。だが聞いてほしい。この長い18年という人生、オレにはついぞ彼女ができたことなぞなかったのだ。
それが。……それが!
「急なんだけどさ……今日、お家、行ってもいいかな……? 一人暮らし、なんだよね……?」
一週間前、まさかの彼女からの告白!(前から好きな子! オレだって誰でもいいだなんて失礼な男じゃない)
そして今日、裏庭で昼食を取っていたところ、彼女からの突然の家庭訪問催促!! 違う、お家デート!!(ちょっと馴染みの無い異文化すぎて言葉を間違えた)
人生薔薇色すぎてこわい。もしかしてオレ、ついに、ついに来ちゃいましたか? その……ね? みなまで言わせるな!
放課後、待ち合わせして一緒にオレの家に行こう、という話で落ち着いて彼女とその場から別れた。やばい、オレ今顔面保っているか。心配になりつつ教室に戻ろうと振り向くと、見覚えのあるニヤついた友人トリオ。顔面すごいぞお前等。
「おいおい、お前、急展開すぎんだろ! もう連れ込むわけ!? ヒューッ! 感想聞かせろよな!」
「お前アレだぞ、アレ買って帰ろよアレ! ンへ」
「いやコイツやで? そこまで行かへん行かへん! チロルチョコかけてもええで!」
たいへん下衆である。好き勝手言いやがって。うるせーどっか行けと言っても一向に離れないのでチロルチョコを一人一個ずつ渡していくと各々教室に帰っていった。なんなんだよお前等は。
その後これと言って何事もなく一日を終えて、ついに放課後である。そして、inオレの家。場面が一気に飛んだ? 仕方ないだろう、オレの心情はもうずっとジェットコースター状態で時が加速しまくりなんだ。今日、午後からの授業の記憶マジでない。
「えっと、あの……なんか飲む!?」
「あ、うん。じゃあお願いするね」
緊張が尋常じゃない。喉カッサカサだ。むしろオレがなんか飲まないと死んじゃいそう。飲み物を用意しようと立ち上がった拍子に、膝をテーブルに打ち付けてしまった。なんでこんなところにいるんだテーブル! ウオオ、痛え! そしてオレ最高にダサい! 悶えていると彼女が慌てたように立ち上がった。
「だ、大丈夫!? 痺れるでしょ。そんな慌てなくてもいいよ。……意外におっちょこちょいなんだね。ふふ」
なんだそれ、天使か、天使なのか、そうなんですねえ!? 脳内ファンファーレが鳴りまくる。オレの彼女可愛いすぎか? ちょっとびっくりしちゃったな。
「だ、大丈夫! ごめん、ありがと、あ」
「え? わっ」
少し蹌踉めいてしまった。断じてわざとじゃない。本当にちょっと体が揺れた程度だったけど、わりと今、オレたちの距離は近かったものだから、軽く体がぶつかってしまった。顔が近い。……エッ!? これ、そういうやつ!? オレわかんない! 何もかもがハジメテだもの!
彼女も頬をうっすら赤く染めつつ(可愛さの限界値突破してる)離れようとしないし、オレはなんか熱いし、頭から湯気が出そう。しちゃっていいのか、こう、ブチュッと。いいのか!? それにしたって心臓がうるさすぎる。ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドシン! ……あ?
心臓の爆音じゃない別の爆音が明らかにしたぞ今。外から? 彼女も聞こえたようで、二人して首を傾げ、そして窓を見た。何もない。無いけど、近付いて、窓を開けてみる。下を覗くと、見覚えのある顔が三つ。
一様に、ヤベェという顔をしながら三人同時に口を開いた。
「……お、お邪魔してま〜す……」
「邪魔すんなら帰ってェ!!!??」
テーマ「突然の君の訪問。」
天気予報では晴れだった。本日は一日快晴となるでしょう、と爽やかな表情で若手そうなアナウンサーが告げていたのを覚えている。
朝の記憶を反芻しながら、慌てて飛び込んだ三メートルほどの木の下で、小さく溜め息をついた。
最初はパラパラ。
次に、ボタボタ。
終いにドボドボ。
「……うーん。大災害」
アナウンサーの策略により傘など持っていない哀れな私は、大きな栗の木の下でひとり、立ち竦むしかないわけである。いや栗の木じゃないけど。たぶん。
一人で、しかも脳内でボケたところで相方はいない。けれど走って移動できるような雨でもない。暇すぎる脳は勝手に漫才をして時間を潰している。
空はどんよりしていて、まだまだ太陽は拝めそうにない。まあこの手のやつは、短時間と相場が決まっているのですぐにこの場から解放されるだろう。そう結論づけた私は自分の脳みそを遊ばせてやることにした。まあ、最近仕事忙しかったし? たまには無為なことに回路を動かすのも、いいだろう。
視線を周囲に動かす。傘を差して歩く人。黒のズボンの裾が更に黒さを増している。まあ、そうなるよね。
手で頭を庇いながら走る人。多分、いやどう考えても意味はなさそう。そして走っても残念ながら手遅れそう。濡れてないところが無さそうだし。
合羽を着ている人。か、賢い。天気予報では晴れって言っていたのに、なんて準備がいいんだ。かもしれない運転、やっぱり大切だな。
ふと腕時計を見やる。ここに逃げ込んで、もう三十分以上は経つ。外を見る、なんて必要もない。耳が拾う音はいつの間にやらドボドボ越えてゴーッ! である。世界の終末? セオリー通りならポツポツになっているはずなんだけど。
これ、無事に帰宅できるんだろうか。すべてを諦めて濡れる覚悟を決めるべき?
悩んで、もう少しだけここにいよう、と決めた。別に暇ってわけじゃないけれど。
使いたくもないことに使い続けた脳みそが、こういうのも悪くないねって語りかけてくるのだ。現状、乾いた体で帰ることができるのか問題に目を瞑ってさえしまえば、こんな時間も悪くないと思えたので、まあ。
もう少しだけ、佇んでいよう。
テーマ「雨に佇む」