南葉ろく

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 今日は定時退社ができそうだ、だなんて上機嫌でいられたのは数時間前のこと。突然舞い込んだ緊急の案件に踊らされ、気付けば定時は虚しく過ぎ去り、空はどっぷりと帳を下ろしてしまっていた。
 疲れた。ただただ、疲れた。最近一緒に暮らし始めた彼女にも、今日は早く帰れそう、なんて喜びのスタンプとともにメッセージを送ったというのに。
 最近、ずっと残業続きだった。今日は久々に太陽の光を浴びながら帰宅できそうだなんて浮ついた心持ちでいたというのに。なんだか妙に物悲しい気持ちになりながら帰路につく。玄関の扉を開けると廊下からパタパタ、と軽やかな足音が響いた。
「おかえりなさい! たいへんだったね、お疲れ様」
「……うん、ただいま」
「……。飲み物淹れてくるね、ソファで待ってて」
 顔に出ていただろうか。彼女はぼくの手からサッと荷物を取ってしまうと、手早く片付けてキッチンに向かってしまった。気を遣わせてしまった。申し訳ない。
 お言葉に甘えてソファに座って待っていると、程なくしてマグカップを手にした彼女が戻ってきた。
「はい、ホットミルクティー。蜂蜜入ってるから甘いよ」
「ありがとう……」
 夏なのに、ホット? と思いつつ受け取り、口にする。優しい甘さと温もりが体にスッと染み込んだ。そういえばデスクワークで体がガチガチになっていたんだった。彼女はこういうことにすぐ気付く。……ああ、敵わないなあ。
 ちらりと彼女を見ると、視線に気付いた彼女はニコリと笑みを返してくれる。言葉は特にない。やることもないだろうに、何を言うでもなくミルクティーをチミチミと飲むぼくの傍に寄り添ってくれている。
 湯気から立ちのぼる紅茶とミルクと甘やかな蜂蜜の香りと、彼女の穏やかな気配を感じて、そっと小さく息を吐いた。無音の世界はとてもぼくに優しくて。しおしおになってしまったぼくの心に、穏やかな雨が降っていた。




テーマ「言葉はいらない、ただ・・・」

8/29/2024, 11:49:04 AM