『そっと伝えたい』
梅が咲いていた。
甘やかな香りがまだ冬の大気をほんのりと明く灯す。
どこかから鳥の囀りも聞こえていた。春告鳥の独特な恋鳴きは高くよく響いて、近くからのようでも遠くからのようでもあった。
季節はなお冬。
しかし春の気配が射しこんでいる、そんな時季、如月。
「ああ、春だねぇ」
そこは学生寮のラウンジ。時節柄、ひとはほとんどいない。帰省せずに寮に残る魔術師見習いはそう多くなかった。
窓の外を眺めていた《火雨》はおっとりと呟く。
ちなみに外は白一色、雪景色だ。白銀の雪に梅の樹は埋もれるようにしながら枝に紅の花を捧げ持っている。
梅以外のどこも春の要素はない。いや梅とて冬に咲く花と数えるなら、もちろん冬の要素だ。
そこに春の姿もなく気配だけが凛乎としてある。
《弥山》は《火雨》の垂れ流す声をはいはいと聞いていた。聞き流していた、と云ってもいいほどの熱量のなさで。
「あ!」
《火雨》が急に身を起こした。
「ね!」
短い声がどうも自分の注意をひこうとして発せられたようだと気づいて《弥山》はやれやれとそちらに視線をくれる。
「見て見て、《弥山》! ウグイスいるよ!」
梅の花に蜜を求めてきたのか、くすんだ緑の小鳥が見えた。
「ウグイスってさ、まさにウグイス色だよね。まぁウグイスの色だからウグイス色なわけだしね〜」
うんうんと悦に入る《火雨》。
《弥山》はさっと辺りを見渡した。ほかの誰かの姿はまばら。《火雨》のいまの言葉を聞き咎めた者がいないと《弥山》は確認する。
訂正すべきだろうか?
ウグイスはウグイス色の小鳥ではない。
そしてウグイス色の小鳥はウグイスではない。
《火雨》の機嫌もプライドも刺激せずにどう云えばいいだろう。
《弥山》はやれやれとため息しながら口をひらく。
不都合な真実は、いつでもそっと伝えたいものだった。
『未来の記憶』
出逢った瞬間に物語が紡がれたのだ。最初から最後まで。
そんなことを口に出したら奇異な眼で見られるだろうから云わないけれど。
それでもそれが真実だ。
あなたと出逢ったとき、私は未来の啓示を目の当たりにした。想像もしたことのない物語、あたかも未来を記憶していたように。
「師よ」
あなたを師と仰ぐ、この誇らしさ。
あなたからどれだけの訓えをいただいたことか。
罪の在処、神の至聖所、天の御業、世の理。
あなたは穏やかに説いた。時には情熱を籠めて夜どおし語ることもあった。罪を怒り声を荒らげることもまたあった。すべて真摯な言葉だった。
最後の日をわたしは忘れない。
晩餐の席であなたは云った。
「あなたの為すべきことを為しなさい」
あのあと、どのようなことが行われ、どのように帰結するのか。わたしは知らなかった。だからあのとき、その言葉をいただいた弟子を(わたしではない弟子を)羨みさえした。
師の言葉を賜わり師から使命を賜わる。
その使命が何であったのか、あのときわたしは知らなかったから。
だが、すべてを知ったいま、わたしはやはり羨むのだ。
あの弟子が為した恐ろしい罪、その重さを知りながらなおわたしは羨む。あの弟子は、師に従って罪を犯した。あの男は裏切り者として永遠に語り継がれるだろう。
わたしの名は埋没するかもしれない。しかしあの裏切り者は、決して忘れ去られることがない。
神の子を売り渡した大罪人としてであっても、師のこの世での物語に、幕を落とした者として永遠に。
師に出逢ったあのとき。
最後の晩餐のあのとき。
わたしは何も見えていなかった。
あの暗い眼差しの裏切り者は、果たして己れの末路を知っていたのか。知っていたならどこで悟ったのか。
わたしは何も知らなかった。
師よ。
神からの言葉を地で語ったかた。
あなたは、どこまでご存知でしたか。
天の父からどこまでを聴いていましたか。
知らなかったからこその十字架上での祈りだったのですか。知ったうえでの祈りでしたか。
ひととして世に遣わされたあなたは、未来をどこまでご存知だったのでしょう。
あなたから使命を賜わった裏切り者は、あなたの意図を、運命を、知っていたのでしょうか。
それともひとり天の神のみが?
未来を語るのは予言。
神の言葉を語るなら預言。
地上に予言者のいたことなどあるのでしょうか。
師よ。
未来を記憶するのは天なるかたのみなのですか。
あなたと逢ったとき、わたしはすべての物語を知った気すらしたのに。
わたしは歴史に埋没するでしょう。
裏切り者を羨みながら。
『ココロ』
コロコロ掌で弄ばれて。
コロリと意見を変えて。
ココロミはあなたに通じず。
別れるコロアイも見誤り。
コロされるまで離れられないのでしょうか。
それとも私がコロすまで?
ずっとココロが解放されずにいるのです。
囚われたコトリのようにあなたという檻のなか。
『星に願って』
願いごとは誰に願えばいいのだろうか。
その時代のその国の、皇子である彼は思案していた。この時代のこの国では、皇統とは即ち神の末孫。神であればその願いを他者に託すことはあってはならないことだ。少なくとも祈る姿など誰にも見せられない。
だが現御神(あきつみかみ)とされるその血筋にあろうと、実際にはひとでしかない。己れを強く信じようとも、時には弱音を吐きたいこともある。己れより貴い存在に願いを預けたくなるときもあろう。
皇子にとってはいまがその時だった。
一日の務めを終え自室に戻る。
疲れた足を奴隷が清める。温かく蒸された布で拭い、香油を揉みこむ。
部屋着に着替えくつろぐ主へ侍女が飲みものを捧げ持ってくる。
侍女は身分高い貴族の末娘だった。貴族の娘が王族に奉公するのは珍しいことではない。実家で学んだ立ち居振る舞いをさらに洗練させるため王宮で実践する。それは嫁入り前の貴族の娘に、いわば箔をつける意味あいもある。
しかしこの侍女に限っては多少事情が異なる。
この娘は口がきけなかった。
生まれながらに耳が聞こえず、言葉も出せぬ。
だから父である貴族は、どのように扱ってもよいと、娘を託すときに皇子に告げた。父として情はあったろうがこの境遇でよい縁談を求めても叶わぬと、あきらめての言葉だった。
名は、何と云っただろうか。
皇子は思った。どのような名であれ、この娘は誰かが名を呼んだところで聞こえぬのだ。この唇が名を名乗ることもないのだ。
皇子は憐憫を覚えた。神に連なる血筋の者として、それはあまり縁のない感情だ。神とは無慈悲なものだ。
酌をする娘の横顔に見入る。
名は。
訊いても答えは得られない。問いはこの娘に届かない。
そう思うと、不思議な感覚に囚われる。
この時代のこの国で、神とは無慈悲でひとの声は届かないものとされている。神は何にも縛られない。
ならば、皇統の私よりこの娘のほうが神に、より似た存在なのではなかろうか。
初めは戯言のような思い巡りだった。
だがその思い巡りは皇子の興を誘った。
部屋から侍女以外の者を下げさせた。侍女はいままでにないことだと気づき一瞬不安な眼差しをした。しかし(これは皇子の妄想かもしれないが)説明もなされぬまま、状況が変わりゆくことには慣れているのか、それ以上の反応は見せなかった。
「私の、願いを」
皇子は口をひらく。
侍女は唇の動きを見ていた。
「私の願いを、祈ってもいいだろうか?」
もちろん侍女は答えない。皇子の発言も理解できなかっただろう。ただ教えこまれた礼儀作法で神妙に傍に控えていた。
娘の瞳が暗いながらも夜空のような深い藍色であることを皇子はいま知った。優しく慎ましやかに娘は聞こえぬ声を聴いていた。
「いずれ、兄と弟と、私は皇位を争わねばならぬ」
それが皇統の務めでありならいであった。
「皇位に興味はない。だが務めならば果たすほかない。それでももしも……」
皇子は言葉を飲み込んだ。この思いを口に出すのははじめてのことだ。誰に云うも聞かれるも、あってはならぬこと。
「もしも、叶うならば、私は逃げたいのだ。私は兄たちも弟たちも、愛している。聡明で優秀で強い者たちばかりだ……」
娘は何も返さない。当たり前だ、言葉を聞けず語れぬ娘にどうしようもない。
娘の夜空の瞳はそれでもなお皇子を見つめている。聞こえぬ声に耳を傾ける彼女の態度は真摯であった。
それだけで皇子は安堵する思いだった。
皇子はそのあと、他愛ない話をいくつかした。
満たされ、癒される。
「ありがとう、娘よ」
礼を云って娘を解放したのは、既に夜も更けた頃合いだ。娘は疲れも不満も見せずに礼儀正しく一礼していった。
娘の瞳を皇子は思った。
あの藍色の瞳は、何もかもを包み込む深さがあった。暗く耀く瞳は夜空の色で、星の光のような強さがあった。
この時代のこの国で、皇統にあるものは神を知ってはならない。己れこそが神でなくてはならぬ。
だが、皇子は初めて神という存在を知ったように感じていた。
あの夜空の瞳、夜空に耀く星のような瞳に、願いをかけて。
『君の背中』
対等になりたくて向きあった。
ただの友情じゃなく尊敬も欲しがって背伸びした。
背伸びをしても背伸びをしても、あなたの背中は、みえない。
あなたの背中と心だけ、みえない。