『星に願って』
願いごとは誰に願えばいいのだろうか。
その時代のその国の、皇子である彼は思案していた。この時代のこの国では、皇統とは即ち神の末孫。神であればその願いを他者に託すことはあってはならないことだ。少なくとも祈る姿など誰にも見せられない。
だが現御神(あきつみかみ)とされるその血筋にあろうと、実際にはひとでしかない。己れを強く信じようとも、時には弱音を吐きたいこともある。己れより貴い存在に願いを預けたくなるときもあろう。
皇子にとってはいまがその時だった。
一日の務めを終え自室に戻る。
疲れた足を奴隷が清める。温かく蒸された布で拭い、香油を揉みこむ。
部屋着に着替えくつろぐ主へ侍女が飲みものを捧げ持ってくる。
侍女は身分高い貴族の末娘だった。貴族の娘が王族に奉公するのは珍しいことではない。実家で学んだ立ち居振る舞いをさらに洗練させるため王宮で実践する。それは嫁入り前の貴族の娘に、いわば箔をつける意味あいもある。
しかしこの侍女に限っては多少事情が異なる。
この娘は口がきけなかった。
生まれながらに耳が聞こえず、言葉も出せぬ。
だから父である貴族は、どのように扱ってもよいと、娘を託すときに皇子に告げた。父として情はあったろうがこの境遇でよい縁談を求めても叶わぬと、あきらめての言葉だった。
名は、何と云っただろうか。
皇子は思った。どのような名であれ、この娘は誰かが名を呼んだところで聞こえぬのだ。この唇が名を名乗ることもないのだ。
皇子は憐憫を覚えた。神に連なる血筋の者として、それはあまり縁のない感情だ。神とは無慈悲なものだ。
酌をする娘の横顔に見入る。
名は。
訊いても答えは得られない。問いはこの娘に届かない。
そう思うと、不思議な感覚に囚われる。
この時代のこの国で、神とは無慈悲でひとの声は届かないものとされている。神は何にも縛られない。
ならば、皇統の私よりこの娘のほうが神に、より似た存在なのではなかろうか。
初めは戯言のような思い巡りだった。
だがその思い巡りは皇子の興を誘った。
部屋から侍女以外の者を下げさせた。侍女はいままでにないことだと気づき一瞬不安な眼差しをした。しかし(これは皇子の妄想かもしれないが)説明もなされぬまま、状況が変わりゆくことには慣れているのか、それ以上の反応は見せなかった。
「私の、願いを」
皇子は口をひらく。
侍女は唇の動きを見ていた。
「私の願いを、祈ってもいいだろうか?」
もちろん侍女は答えない。皇子の発言も理解できなかっただろう。ただ教えこまれた礼儀作法で神妙に傍に控えていた。
娘の瞳が暗いながらも夜空のような深い藍色であることを皇子はいま知った。優しく慎ましやかに娘は聞こえぬ声を聴いていた。
「いずれ、兄と弟と、私は皇位を争わねばならぬ」
それが皇統の務めでありならいであった。
「皇位に興味はない。だが務めならば果たすほかない。それでももしも……」
皇子は言葉を飲み込んだ。この思いを口に出すのははじめてのことだ。誰に云うも聞かれるも、あってはならぬこと。
「もしも、叶うならば、私は逃げたいのだ。私は兄たちも弟たちも、愛している。聡明で優秀で強い者たちばかりだ……」
娘は何も返さない。当たり前だ、言葉を聞けず語れぬ娘にどうしようもない。
娘の夜空の瞳はそれでもなお皇子を見つめている。聞こえぬ声に耳を傾ける彼女の態度は真摯であった。
それだけで皇子は安堵する思いだった。
皇子はそのあと、他愛ない話をいくつかした。
満たされ、癒される。
「ありがとう、娘よ」
礼を云って娘を解放したのは、既に夜も更けた頃合いだ。娘は疲れも不満も見せずに礼儀正しく一礼していった。
娘の瞳を皇子は思った。
あの藍色の瞳は、何もかもを包み込む深さがあった。暗く耀く瞳は夜空の色で、星の光のような強さがあった。
この時代のこの国で、皇統にあるものは神を知ってはならない。己れこそが神でなくてはならぬ。
だが、皇子は初めて神という存在を知ったように感じていた。
あの夜空の瞳、夜空に耀く星のような瞳に、願いをかけて。
2/10/2025, 11:22:39 AM