『遠く…』
子供の頃、死ぬなんてことは別世界のことだった。
物語のなか。テレビのなか。ゲームのなか。
一線をひいて世界を分けている。その線を乗り越えてくることのない非現実。
年を重ね、青年期、死は非現実のまま憧れとなった。醜く穢く息苦しいこの現し世から自分を救ってくれる非現実。誰の身にも約束された救い。
それが、死が遠い時代の夢想だったと、だんだん気づいていく。
高齢の親戚、憧れた有名人、そして愈々家族。
遠くにあったはずのものが、己れに指を伸ばしている。
遠きにありて思うものだったのに。
友人の葬儀に参列しながら、涙をぬぐいながら。
己れの肩に、とん、と軽く手がかかるのを感じた。
その感触はすぐに消えた。振り返るまでもなく、知っている。
いずれ私の番が来る。幼いとき、若いとき、ずっと遠くにあった約束の地。
いずれ遠き約束の地は私を喚ぶ。
憧れではなく、幻ではなく、救いではなく。
『誰も知らない秘密』
わたしは道化。
あなたは王。
狂ってしまった哀しい覇王。
力で国を平らげ、力で正義を世に布いた。求めたのは高い理想。誰もが餓えず渇かず、傷つけず傷つけられず、殺さず殺されぬ、王国を切り拓いた。
罪を犯した者は身分や富の多寡に拠らず、裁かれ罰せられる。そんな正義を世に布いた。
あなたが正しいことを誰もが知っている。
誰よりも平和を愛した狂王。
あなたが正しいことは誰もが知っている。
そしてあなたが何故狂ったのか誰も知らない。
あなたの歩んだ覇道には、共に歩んだ友がいた。
あなたの代わりに剣を振るった。
あなたの代わりにすべての罪を引き受けた友がいた。
あなたがかぶるはずの血、奪わねばならなかった命。玉座に昇るあなたの手は無垢でなければならなかった。ゆえにあなたの友がすべて引き受けた。
あなたの友は喜んで罪を為した。
そして狂王、あなたが玉座を得たとき、あなたが犯さなければならなかった罪のすべてを負って、友は死んだ。
黙って、誰の眼にもつかずに、ひとりきりで。
哀れなのはどちらだったのか。
輝かしき王国の御代を見届けられずに命絶たれた者だったか。
無垢なまま清らかなまま、友を看取るも叶わなかった王であったか。
わたしは道化。
狂王のまえでおどけ戯れる。
虚言の裏で真実を語り騙る。
誰もわたしの言葉の意味を探らない。
そう、あなた以外の誰も。
臣民誰も、道化の言葉を真に受けない。
狂王、あなただけがわたしの言葉を聴いている。
誰も知らない王国の秘密。
『静かな夜明け』
夜を徹して過去問を解く。
ペンがノートの紙を走る音。時々紙に引っかかる、摩擦が手に伝わる。
この試験に受かったら。
手をとめて傍らのホットコーヒーを一口飲む。それはいまや、ホットコーヒーだった飲み物となっていたが。
この試験に受かったら……。
何か死亡フラグ的なものを云ってみたかったのだが、あいにくと気の利いた科白は浮かばなかった。
試験に受かったところで、プロポーズする相手はいない。告白しようとて片想いの相手すらいない。
(参考書と過去問題集が恋人みたいなものだったからな……)
苦笑いすら浮かばない。
ただ、無事に第一志望に受かれば新年度から憧れのひとり暮らしだ。
家族が嫌いなわけではない。それでもひとり暮らしという言葉の解放感に期待ばかり募る。
さて、続きに戻るか。
伸びをしてまたペンを手に取る。
カーテンの向こう側が白みかけている。もうそろそろ、夜明けだ。
徹夜で勉強なんて、効率はよくないと散々云われている。体力も気力もありあまる若い時期だけの戦法ではある。
それでも、無音のなかで迎えるこの夜明けは特別感に満ちている。
◆◆◆◆◆
この冬を走り抜ける。
この夜を走り抜ける。
春を、夜明けを、迎えにゆく。
『heart to heart』
花から花へ渡る蝶のように、あちらこちら。
華やかに移り気に、そんなあなたが帰る場所はわたしだけ。
なんて云えたらいいんだろう。
想いながらあなたから眼を逸らしたのは自分。
こちらから先に視線を逸らした。
そんなときに限って勘よく気づいて近づいてくる。
以心伝心。
そう、自惚れられたら楽だ。
単純に注目を浴びたいだけだと、関心を逸らされるのがお気に召さないだけなんだと、知っているよ。
心から心へ。
渡り歩く、あなたの不誠実さが嫌いで、好きで、嫌い。
『永遠の花束』
プリザーブドフラワー。
特殊な処置で加工保存された花。
枯れることのない花。
最も華やかな時期の姿をとどめる。
それはとても美しいことなのだろう。
永遠というものに焦がれるひとにとっては。
『どうしても受けいれられない』
私の友だちはそう云った。
『不自然だから』
美しいものを愛でるのはわかる。
その時期を延ばそうとするのも理解できる。
でも、と友だちは表情を曇らせた。
『枯れる運命にあるものからそれを取り除いてまで愛でようなんて、わたしはキモチワルイと思う』
友だちは文字でそれを著したわけではない。声で語った。だが明らかに『キモチワルイ』と云った。『気持ち悪い』ではなかった。
それは思春期の潔癖だったのかもしれない。儚いものこそ美しいという青い理想への傾倒に過ぎなかったのかもしれない。
永遠なんてものまで、小手先で効率的に手に入れようとする人間への厭気。
そうだったのだといまこの瞬間、私は信じたかった。
「わたしね、わかった」
通話の声は淡々としていた。
「どうしても、手放したくないものってあるんだって」
「ちょっと、ちょっと待って」
焦る私を友だちは歯牙にもかけない。
「死んでしまったあと、火葬にでもされてしまったら私には何も残らない。だってわたしは家族でも何でもないから」
「落ち着いてよ」
「落ち着くのはそっちでしょう。わたしは大丈夫」
云いながらくすりと笑う息が洩れた。
「ホルマリンはもう用意してあるし」
眩暈がした。脚が震えて床に崩れる。
友だちが道ならぬ恋をしているのは知っていた。
匂わせではなかった、と思う。一度、既婚者に恋をしてしまったと苦しげに吐き出して、だがそれ以上は語らず、私も訊けなかった。
聴いておけばよかった。
無意味な後悔が胸を占めた。
「どうして」
これもまた意味のない問い。零れる。
少しだけ間を開けて、友だちは云う。
「どうして、って。保存する理由? それともあなたに話した理由?」
何故かこのとき、背筋に冷たさを感じた。ぞっとした。
「保存した理由はさっき云ったよ。大切なひとだから、わたしの手許に残すため」
「そして、打ち明けた理由も同じ。あなたが大事だから。大事な友だちだからだよ」
背筋にまたも冷たさがふれた。
それは比喩でなく、風というかたちで。
「あなたはわたしの大事なひとだから」
振り返りたい。振り返らなければいけない。
それはわかっていた。
そして、振り返ってはいけないことも、わかっていた。
声は、デバイス越しではなく耳に直接に聞こえた。
「大事なものを、わたしはもうあきらめないよ?」
私は枯れない花束になる。