『あなたのもとへ』
急いで歩く。
あなたたちが家で待っている。
こんな寒い日暮れにもあなたたちは殊勝に待っている。
なかなか歩行者信号が青にならない交差点。
木曜に恒例セールを催すマーケット。
いまどき珍しいタバコ屋に店番はおらず、自動販売機が種類豊富に並んでいる。
その並びの書店は、先月とうとう潰れてしまった。
歩道を危うい速度で自転車が疾る。
我が家はそんな商業地区を抜けたところの、住宅街の端にある。ほんの十年前はまだ活気が残っていた。いまは仕事を退いた高齢者が多く住む。――いや、これでは順序が違う。社会の第一線で活躍するひとたちが、持ち家を建てた場所。そして子育ても終えたのちに、企業から家へと戻り、いま人生の最終面の穏やかな日を重ねているのだ。
私は自宅の玄関をあけた。
「帰りましたよ」
夫に声をかける。返事は聞こえない。だが優しい眼差しがあることを知っている。
老年の習い事として学ぶ異国語の、本日の成果をぽつぽつと語りながら、仏壇に線香をあげた。
夫の遺影に手をあわせる。そして夫の隣りにいる、その子にも手をあわせた。
最初は野良だった。いつか懐いて我が家の猫となった。
頑固な九州の男だった夫の心にするりと入りこんだ、可愛い猫。夫が入院したときに持っていったのは、家族のものではなくこの猫の写真。リハビリする夫の心を病室で支えてくれたこの猫。
夫が世を発って、その後泣きくれた私を慰めるようにいつも傍にいてくれた猫。
やがて私が前を向けるようになって、それを見届けてか猫は夫のいる空に昇った。
いつか、私もそちらへ行くでしょう。
娘が差しいれた緑茶の香りの線香が、やわらかく匂い立つ。
急がないで行くけれど。
微笑みが浮かんだ。
待っていてくださいね。
誰しもがゆくこの道の先で。
『そっと』
sideA
放っておいてほしい。
そんなきらきらとした笑顔で私の名前を呼ばないで。
夢を語らないで。
無垢に私を信じないで。
あなたがあまりにきれいで透明で、私は私の醜さに気づいてしまうから。打ちのめされてしまうから。
sideB
放っておいてというのね。
私がきらきらしているって、夢を信じているって。
そう見えるのなら、それはあなたが相手だから。
あなたがまっすぐに立って、遙かを見据えているから。
あなたが自分の醜いところを恥じて、でも隠そうなんてしないから。打ちのめされても、あきらめずに立ちあがるから。
あなたが私のメルクマールだから。
あなたのように、私は、なりたい。
Our side
そんな憧れをそっと決意に置き換える。
今日も、あなたと私。
『まだ見ぬ景色』
海外、例えば地平線の見えるモンゴルの草原。
聖書に出てくる荒野とか。
死海、砂漠、極北のオーロラ。
行ったことのない世界に思いを馳せる。
それとも人類未踏の太陽系外の宇宙。
海溝の底の、光の届かない世界。
そして、それとも例えば、君の心。
何を考えて誰を想っているのだろう。
そして、そして。
私の心。
誰にも見せない私の心。
宇宙より静かかもしれない。
海溝より暗いかもしれない。
君という光は届いているのだろうか。
君に見せる価値のある心だったら、いいのに。
『あの夢のつづきを』
目が覚めた。
どんな夢をみていたものか、覚えていない。夢はきれいにぬぐわれて私には何も残らない。
起きて、普段着のままだと気がついた。
(あれ?)
夕べ、パジャマに着替えた覚えがあるのに。
でも、そんな記憶違いも時にはあるのだろう。違和感はすぐに消えた。お腹が空いている。寝室から母のいるだろうリビングへ移動した。
母は朝ごはんをつくっていた。いつもどおりに私はトースターに食パンを放りこんだ。母が振り返る。
「早起きね。いま目玉焼きができるからちょっとだけ待」
そこで、目が覚めた。
何か妙に現実的な夢だった。
やはり普段着のままの私はベッドに上体を起こす。大きな欠伸をしてリビングへ。
母は朝ごはんをつくっていた。いつもどおりに私はトースターに食パンを放りこんだ。母が振り返
目が覚めた。
さすがに私は若干の不気味さと焦りを覚えていた。
普段着のまま、私は急ぎ足でリビングへ。
母は朝ごはんをつくっていた。私はトースターに食パンを放りこむなり母に訊く。ここで目が覚めなければ、たぶんループから逃れられる。そんな気がしていた。
「今日は目玉焼き?」
母は振り返った。
「そうよ、よく、わかったね」
やった、乗り切った!
私は目が覚めた。
口のなかがじゃりじゃりと苦い。
普段着。寝室を跳び出す。リビングへ急ぐ。リビングへ入るなり、
私は目が覚めた。
どうなっているのだろう。心が怯えて心臓が痛い。
普段着、寝室を出て廊下を駆け抜け母のいるリビング
目が覚めた。
ベッドに起きあがり、普段
目が覚めた。
ベッドで起きる私はもう泣き出しそうだった。
目が覚めた。
ベッドで
目が覚めた。
瞼をあげることも怖い、
目が覚め
目が
目...
夢はもうみたくない。
私は一生もうこの檻から逃げられないのか。
目をあけられない。あけたらきっと目が覚める!
また、目が、覚めて、
この夢のつづきは、何処へつながるのか。
あたりまえに夢から覚められた私の、あたりまえのあの夢のつづきの日常を、私は、
夢の つづきを また みますか ?
『あたたかいね』
温かいと信じて握ったその手は、ひんやりとしていた。
冬のさなかに何故この手だけ温かいと信じたのだろう。
あなたをかたちづくるすべてが温かいと思っていたわたしはどれだけ子どもだったのか。
いつも温かいと疑い挟まず思われつづけたあなたは、もしかしたらつらかったのかもしれない。
あなたが流す涙は頬を冷たく濡らす。
それを知ったわたしは、あのときより、きっと幸せだから。だからわたしの手であなたの頬を包む。
わたしの体温があなたの体温にふれますように。