『そっと』
sideA
放っておいてほしい。
そんなきらきらとした笑顔で私の名前を呼ばないで。
夢を語らないで。
無垢に私を信じないで。
あなたがあまりにきれいで透明で、私は私の醜さに気づいてしまうから。打ちのめされてしまうから。
sideB
放っておいてというのね。
私がきらきらしているって、夢を信じているって。
そう見えるのなら、それはあなたが相手だから。
あなたがまっすぐに立って、遙かを見据えているから。
あなたが自分の醜いところを恥じて、でも隠そうなんてしないから。打ちのめされても、あきらめずに立ちあがるから。
あなたが私のメルクマールだから。
あなたのように、私は、なりたい。
Our side
そんな憧れをそっと決意に置き換える。
今日も、あなたと私。
『まだ見ぬ景色』
海外、例えば地平線の見えるモンゴルの草原。
聖書に出てくる荒野とか。
死海、砂漠、極北のオーロラ。
行ったことのない世界に思いを馳せる。
それとも人類未踏の太陽系外の宇宙。
海溝の底の、光の届かない世界。
そして、それとも例えば、君の心。
何を考えて誰を想っているのだろう。
そして、そして。
私の心。
誰にも見せない私の心。
宇宙より静かかもしれない。
海溝より暗いかもしれない。
君という光は届いているのだろうか。
君に見せる価値のある心だったら、いいのに。
『あの夢のつづきを』
目が覚めた。
どんな夢をみていたものか、覚えていない。夢はきれいにぬぐわれて私には何も残らない。
起きて、普段着のままだと気がついた。
(あれ?)
夕べ、パジャマに着替えた覚えがあるのに。
でも、そんな記憶違いも時にはあるのだろう。違和感はすぐに消えた。お腹が空いている。寝室から母のいるだろうリビングへ移動した。
母は朝ごはんをつくっていた。いつもどおりに私はトースターに食パンを放りこんだ。母が振り返る。
「早起きね。いま目玉焼きができるからちょっとだけ待」
そこで、目が覚めた。
何か妙に現実的な夢だった。
やはり普段着のままの私はベッドに上体を起こす。大きな欠伸をしてリビングへ。
母は朝ごはんをつくっていた。いつもどおりに私はトースターに食パンを放りこんだ。母が振り返
目が覚めた。
さすがに私は若干の不気味さと焦りを覚えていた。
普段着のまま、私は急ぎ足でリビングへ。
母は朝ごはんをつくっていた。私はトースターに食パンを放りこむなり母に訊く。ここで目が覚めなければ、たぶんループから逃れられる。そんな気がしていた。
「今日は目玉焼き?」
母は振り返った。
「そうよ、よく、わかったね」
やった、乗り切った!
私は目が覚めた。
口のなかがじゃりじゃりと苦い。
普段着。寝室を跳び出す。リビングへ急ぐ。リビングへ入るなり、
私は目が覚めた。
どうなっているのだろう。心が怯えて心臓が痛い。
普段着、寝室を出て廊下を駆け抜け母のいるリビング
目が覚めた。
ベッドに起きあがり、普段
目が覚めた。
ベッドで起きる私はもう泣き出しそうだった。
目が覚めた。
ベッドで
目が覚めた。
瞼をあげることも怖い、
目が覚め
目が
目...
夢はもうみたくない。
私は一生もうこの檻から逃げられないのか。
目をあけられない。あけたらきっと目が覚める!
また、目が、覚めて、
この夢のつづきは、何処へつながるのか。
あたりまえに夢から覚められた私の、あたりまえのあの夢のつづきの日常を、私は、
夢の つづきを また みますか ?
『あたたかいね』
温かいと信じて握ったその手は、ひんやりとしていた。
冬のさなかに何故この手だけ温かいと信じたのだろう。
あなたをかたちづくるすべてが温かいと思っていたわたしはどれだけ子どもだったのか。
いつも温かいと疑い挟まず思われつづけたあなたは、もしかしたらつらかったのかもしれない。
あなたが流す涙は頬を冷たく濡らす。
それを知ったわたしは、あのときより、きっと幸せだから。だからわたしの手であなたの頬を包む。
わたしの体温があなたの体温にふれますように。
『未来への鍵』
――これは未来への扉。
その女は云った。
彼は目の前の扉を見あげた。
豪奢な装飾が施されている。重そうな扉の、やや高い位置に虹色に耀く金属の鍵穴があった。
――そしてこれが未来への鍵だ。
女が手のなかの鍵を彼に渡す。
平凡なあかがね色の鍵だった。扉や鍵穴のものものしさに見あっていない。
彼は黙ってその鍵を拝受した。
鍵を鍵穴に寄せる。
ふと、女が笑う気配があった。嗤われたのでは、と奇妙な妄想に駆られて彼は横目で女を見やる。女の表情に笑みはない。
鍵は――、鍵穴より明らかに小さい。
「この鍵で、この扉は開かないのでは…?」
彼は囁くように奏上した。
女は――女神は、頷く。
――さよう。
声ではない。空気を震わせる音声ではない。
女神の語りは感情を揺らす。
――ひとの子。おまえたちは未来に辿りつくことはない。
それは絶望の宣言だったろうか。
――おまえたちは未来に辿りつかない。未来の顔をおまえたちが見ることはない。そして、過去に留まることもない。
彼は無力に打ちひしがれたようにうつむいた。
女神は慈悲なくつづける。
――おまえたちは未来にも過去にも存在しない。おまえたちには《現在》しか許されない。
女神が顔をあげるよううながした。彼は視線をあげた。そこには新しい扉があった。
「これは……?」
――これは《現在》。ひとの子にただひとつ許されている時空。
だが《現在》の扉には、鍵穴がない。
彼の戸惑いを女神は聞かずとも汲んだ。
――鍵はない。そう、鍵はない。
――おまえたちには《現在》のすべてが開かれている。
彼は《現在》の扉に手を伸ばした。取っ手すらなかった。簡素な扉に手を当て、ゆっくりと押す。抵抗はなく軋みもなく、扉が静かに開く。開くべくして開く。
女神に礼を。
彼は振り返る。
そこには既に誰もなかった。
あかがね色の鍵がいつかそこに落ちていた。