『未来への鍵』
――これは未来への扉。
その女は云った。
彼は目の前の扉を見あげた。
豪奢な装飾が施されている。重そうな扉の、やや高い位置に虹色に耀く金属の鍵穴があった。
――そしてこれが未来への鍵だ。
女が手のなかの鍵を彼に渡す。
平凡なあかがね色の鍵だった。扉や鍵穴のものものしさに見あっていない。
彼は黙ってその鍵を拝受した。
鍵を鍵穴に寄せる。
ふと、女が笑う気配があった。嗤われたのでは、と奇妙な妄想に駆られて彼は横目で女を見やる。女の表情に笑みはない。
鍵は――、鍵穴より明らかに小さい。
「この鍵で、この扉は開かないのでは…?」
彼は囁くように奏上した。
女は――女神は、頷く。
――さよう。
声ではない。空気を震わせる音声ではない。
女神の語りは感情を揺らす。
――ひとの子。おまえたちは未来に辿りつくことはない。
それは絶望の宣言だったろうか。
――おまえたちは未来に辿りつかない。未来の顔をおまえたちが見ることはない。そして、過去に留まることもない。
彼は無力に打ちひしがれたようにうつむいた。
女神は慈悲なくつづける。
――おまえたちは未来にも過去にも存在しない。おまえたちには《現在》しか許されない。
女神が顔をあげるよううながした。彼は視線をあげた。そこには新しい扉があった。
「これは……?」
――これは《現在》。ひとの子にただひとつ許されている時空。
だが《現在》の扉には、鍵穴がない。
彼の戸惑いを女神は聞かずとも汲んだ。
――鍵はない。そう、鍵はない。
――おまえたちには《現在》のすべてが開かれている。
彼は《現在》の扉に手を伸ばした。取っ手すらなかった。簡素な扉に手を当て、ゆっくりと押す。抵抗はなく軋みもなく、扉が静かに開く。開くべくして開く。
女神に礼を。
彼は振り返る。
そこには既に誰もなかった。
あかがね色の鍵がいつかそこに落ちていた。
1/10/2025, 12:07:35 PM