nada

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4/8/2024, 4:50:32 PM

「つづきは?」
「なんの?」
「コレカラモズット何?現状維持?今までみたいに耐え忍んでいこう!とか、絶対に襲いくる変化さえ拒絶していこう!とか、なんかあるでしょ。変化を求めて訴え続けていこうきっと変化しないけどさ!とか」
「今、精一杯のロマンチックを提供したのに、そんなこと言う?」
「ロマンチックラブイデオロギーを盲信していこうな!って意味?」
「うー、たしかにロマンチックラブの愛好者だけどさ、政治信条としてロマンチックラブイデオロギーは拒否したい方よ。これでも」
「そういうこともある。たしかに」
「でしょ」
「で、何?」
「コレカラモズット?」
「それ、続きがある言葉でしょ?」
「それはそう。ありがちなのは、"一緒にいよう“でしょ。でも、一緒にいたいとそんなに強く思ってない場合、もしくは、一緒にいられると信じてはいない場合などのとき、あえて言わないことで、ぼや〜〜っとしたセリフにできる、便利なクリシェ」
「クリシェ!」
「だと思うな。だって創造性のカケラもないように感じるもん」
「でも言ったんだ?」
「え〜だってパターンじゃん。ロマンチックラブは大体パターン化してて、その型だけを楽しむ、ものだと、思うわけで、だから負荷が少なくていいよね〜」
「クリシェだな、と思うと逆に負荷がすごいんですけど」
「パターン化したやりとりが嫌いだからじゃない?嫌いなことを実行するのは、ま〜〜きついよね」
「わたしならさあ」
「お」
「いや期待しないで」
「えへへ」
「もう。まあ、だから、わたしならさ、コレカラモズットなんてとても言えない。気分悪くなる」
「ふふ、すごく嫌そう」
「嫌だから。だけどもし、今の状態の一部分をできるだけ長い期間維持したいと思ったなら、そのうえそれを口にだそうと決心したなら、死なせてくれ!って言うかも。絶対くる変化を見たいくないから今ひとおもいに!って」
「あら〜変化は受け入れちゃう?」
「変わってくれないと困るし」
「それはそう。現状維持じゃ困るのよ。欲しい変化すらまだ来てないなんて。ロマンチックラブのとりあえずのゴールは婚姻なのに!なんてこと」
「ロマンチックラブ、あんまいいものに聞こえないけど」
「そりゃあ、型なんてだいたい保守的で、そこをどう脱臼させようかっていう楽しみを突き詰めるとジャンルの外にいっちゃうから、変化したとしても型はなお保守的で、変化を信条にするなら楽しくないんじゃないかな。愛好はしてる側からすればもちろん楽しさはあるけど、いいものだとは思ってないかな〜。でもいっそひとおもいに!もだいぶロマンチックだよ」
「え、やだ」
「死に解決を求めるのはロマンチックのクリシェ」
「ほんとに?」
「ほんとは知らないけどわたしはそう思ったの。ロマンチックの才能ある」
「ロマンチックに結びつける才能があるだけだと思うなあ!」
「そういうことしといてあげてもいいよ〜」

4/7/2024, 11:25:56 AM

朝日は昇るもの、夕日は沈むもの。
ですが、太陽が空に見えるようになるから朝だし、太陽が空に見えなくなる頃だから夕方であって、夕方だから日が沈むのではない。
太陽の動きが先、朝・夕という名前は後。
しかし、その上、実際は地球の方がクルクル回っているのだ。太陽は動いていない。こっちが動いている。
地球が自転しているから、太陽が動いて見え、太陽が出ているか出ていないか、昼か夜かというのは人類にとって一大事だから、見せかけの太陽の動きに沿った時間の感覚が生まれ、夜が来たら一区切り、というだけでは飽き足らず、その夜の始まりの頃に夕という名をつける。夕はそもそも三日月の形を模したものだから、その月が見える頃ということで、夕方と幅を持たせた時間の呼び方を使い出し、その時間の区分が人口に膾炙しまくって、その時間帯に見える太陽のことを夕日と呼ぶようになり、で、わたしたちはいつだって自分から見えるものばっかりを事実だと思い込むから、“夕日”が“沈む“のではないかしらね。

夕が三日月の象形文字だって知らなかったな。“夕日”って混乱した熟語だ。

4/7/2024, 6:46:43 AM

君、二人称“君”、日常使わない言葉なのにまだ生きていている言葉。うっすらと権力勾配を感じる言葉。坂の上にいるものが坂の下にいるものに使うのではないか。逆はないだろう。

の、うん。助詞だ。連体助詞あるいは格助詞。わたしの体はわたしのものだから君の体は君のものでもちろん君は君の目のことも所有している。

目、体の部位。視る能力を期待されがち。君の体のわたしの体のほんの一部。

を、えー、助詞。連用修飾語。だから、動詞をつなぐもの。をの後には動詞がくる。

見つめる、ということで動詞だ。見るとは違う。よそ見をせずそのものをじっと見ること、とかなんとか。じっとり湿った感じがして好きな言葉ではない。個人の感想ですが。

と、と?助詞だね。連用修飾(わたしと会う)か、並列か(あなたとわたし)なわけだけど、連用修飾語だと考えるのが妥当でしょう。

「この“と”をつけることで続く動詞を考えたくなるでしょう!動詞!何かが動く様子ですから、そこには主体がいます。行為者がいる。ここで”見つめる“に戻ってみると、その行為の主体が書かれていないことがわかりますね。はい、ですから想像してください。誰が、どこで、どんな風に“見つめ”、そしてこの、“と”以下です。何かが起こるわけです。“と”以下に続くであろう動詞の行為者と、“見つめる”の行為者は同一でもいいし、そうでなくてもいい。“君”というのは二人称ですから、少なくともこの場には2人、人で無くともいいわけですが、行為の主体となりうるものが、2体以上いるということです。そういうことを考えさせようというわけですね」

うーん……なんか、いや……いやーうん……

4/5/2024, 12:46:37 PM

わたしはスーパーマンが好きで、もともとのライターとアーティストのシーゲルとシャスターもけっこう好きで、伝記のコミックスももっているし、スーパーマンの新聞連載版コミックストリップをまとめた本も何冊も持っていて、それで、実は、レックス・ルーサーの方が好きだ。
レックス・ルーサーは人間で、そのうえなんでもできる。レックス・ルーサーは、超初期の頃、どちらかというと魔術師めいていて、その後、超科学が使える謎の支配者(願望が強い)になって、アウトローになって、社長とか市長とか会長とかそういう、社会的な地位と権力が張り付き出したのは、スーパーマンに農家の養子という設定が張り付いてからだ。
スーパーマンに農家の養子という設定が張り付く前のスーパーマンのことが好きだ。そのスーパーマンは恐ろしいくらいなんでもできるので、超高速すぎて人類にしてみれば複数箇所に同時に存在できるし、時間も自由に行き来できるし(これは今もそうなってることもある)、星を1から作ることもできるし、惑星も移動させられるし、どんな言葉も読めて話せて、サンタクロースとも出会う。海の底にも宇宙の果てにも行ける。ちょっとした記念にヒートビジョンで惑星に文字を彫ったり山に顔を彫ったりするし、出来すぎた彫像もやたらと作る。写真より精巧に作る。何故ならスーパーマンは写真に写された以上の情報を完璧に記憶し続けられるからだ。心音で個人の識別ができるし、人の毛穴なんて離れてたって全然見える。などなど。ありとあらゆることができる。ライターの想像力がそこに辿り着けさえすれば、スーパーマンはできる。(その後、いかに“できない”を描くかという風にかわってしまう)
それで、レックス・ルーサーはなにせスーパーマンのアーチーエネミーであるから、そのころスーパーマンにできることはできるようになることが結構ある。アウトローだから社会の常識は通用しない。機械で空も飛べるし、宇宙のどこへでも行けるし、どんな本でも読んでおり、ありとあらゆることに閃き、その閃きを実現でき、脱獄もするし、地球以外の星で権力を手にしたりもする。このころは、どこまでいっても、レックス・ルーサーは人類のままだったし、そして人類のままで、生命を作ることができる、場合があった。
シルバーエイジと言われることもある時期に描かれた、レックスとスーパーボーイ(少年時代のスーパーマン)の出会いには、レックスが生み出した生命体が登場するが、ただの生命でしかないそれが、そこに描かれていることが、なんだか恐ろしく好きなのだ。
なんでもできるスーパーマンではなく、なんにも躊躇わない、禁忌のないレックスが、それをつくったということも。
スーパーマンもレックス・ルーサーもよく宇宙に行く。星々はとても近い。でもその、自己の形を保てるかどうかという生命体の、無垢さが、どうしても悲しくて傷ましくて輝かしくて好きだ。

だから実は、ギャラクティックゴーレムもことも好き。初登場回以降、再登場なんてさせないで欲しいくらいには。

初期のころのクラーク・ケントのどこが好きかもいつかできたらな。ロイス・レーンは大好き。

4/4/2024, 1:04:22 PM

それ、そうそれ。
いやそっちじゃなくて、それそれ。うん、そう。
それでいいと思ったんだよね。
それがって言えるほどポジティブな気持ちじゃないんだけどさ、選べる範囲で、まあだから、消去法で選ぶと、残ったのがそれ。
うん。
そりゃあさ、一目で確信が持てるのと出会うまで待てるなら、そうしたいよ。一目で確信が持てて、それを選ぶ力がそのときわたしにあってさ、そういうのに出会うまで待つのが、本当は理想。
こんかいのそれは、そういうんじゃないってこと。
だからどうしても、それでいいかなーってなっちゃうの。ていうか、そういう、環境に強いられて選ぶのもまあ、気が楽でいいかと思うことに、した。今回は。
これだ!って思えなかったんだから、そりゃ気分もあがらないし、ここがあとちょっと、そこもあとちょっと違ってたらなって、たぶん日々思うし、それに馴染むまではたぶん、苛立ったりもするよ。
でも、なんていうかな、主体的に選んだんじゃないから。
気に入らないのはわたしのせいじゃないし、って思えるっていうか。で、さ、しばらく、何日か、何週間か、何年かしたら、選んだことも忘れてるね。きっと。
でも気が楽じゃん。選んだ責任のぜんぶを引き受けなくていいって、ほんと、ひとのせいにできるし。
あ、他人の所為になる方が気が重い?へえ!
失敗が自分だけのものじゃなくなるからか…わかる。かも。うん。自分の所為で他人が責められるのはものすごく気が重い。
ううん、でも選択ってすごいパワーつかうから、無理なときも結構あってさ、あ、それはわかる?だよねえ。だから、他にやりようがなくて、“それで“ってなったりもするじゃん。
それをね、そんな悪いばっかりじゃないぞ、ってしときたいわけよ。意外と悪くないぞ。これはこれで、違った面白さがあるぞ、ってしときたいの。
だからそれでって選ぶこともやっていきたいわけ。訓練っていうの?
理想と違ったり、ずるかったり、怠けてたり、雑だったり、やれることなのにやってなかったり、やらなきゃいけないこともやってなかったりしてもさ、それでもまあまあ生きてるくらいで、やっていければな、と。うん。
それでって選んだんだから、わかってんだ。選び終わった後からあっちのがマシだったかもって思うわけ。だって正直どっちでもいいんだしね。
だけど選択を全部背負い込んだりはできないし、とはいえ、どっちでもいいのにどっちかは必要なんて、そりゃバカげてる。
バカげてるけど、だいたい選択とか結論とか、決着とか、決定とかそういうのっていつでもバカげてない?
考え続けるのは苦しいからさ、巨大な怠惰をまるっと無視して、もういいよそれで!ってわけ。

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