『アイデンティティの根源に他者がいる』
そういうことを聞きたかった。そういうことを読みたかった。
人種主義、植民地主義、ヨーロッパ中心主義、わたしにとっては人間中心主義でもいい。異性愛主義でもいいし、男女二元主義(規範)でも。
『アイデンティティの根源に他者がいる』のだ。それらの主義は根底から考え直さなければならない。純粋さは幻想だ。しかも気分の悪くなる幻想。わたしのアイデンティティの根源に他者がいるなら、わたしのアイデンティティはあらかじめ傷つき欠けて不足しているなら、「わたしの」アイデンティティだと思っていたものの根源に他者がいるなら、「わたしの」根底にそもそも他者がいるなら、それはきらめくような希望の雫だ。
いらないってことはないよ。
いらないってことは、ない。
でもねえ、みてよこの六畳一間。四畳一間ってわけじゃないからね、多少の余地はあるわけ。本棚も置けるし、まあ本棚置いて、気づいたら6台にもなっちゃって、だからもう、こうして真ん中にちゃぶ台だして、そんで布団。ベッドにすると壁が一面埋まっちゃうでしょう?だから布団。で、本棚。あ、そうクローゼットもあるのよ。服はそこ。そんでさ、本を買うじゃない?本を買うから本棚は大きめにってなるじゃない?そうするとはじめは、隙間があるでしょう?だからグラスとかマグカップとか、あと常備薬とか、マスクとか、化粧品とかさ、あと書類ね、公共料金の支払い明細とかさ、年金のとか、お薬手帳とか、なんかわかんないけどいるかもしんない県民共済のお知らせとか、そういうの。賃貸の契約書とかさ。あと説明書!家電の!とかさ、はじめは綺麗に収まるわけ。でも本は増えるからさあ、もちろん本棚は埋まっていくでしょう。で、そういうのが押し出されて隙間に詰め込まれて、で〜紙が多いなーと思ったのもあって、埃っぽいかな〜みたいな、で空気清浄機。安いやつね。センサーないやつ。で掃除機でしょ。そしたらさ、もう全然、場所がないの。いらないってことはないんだけど、受け入れる土地がないわけ。余地も土地も。だから、うん、いまんとこ何もってかんじ。あと実はさ、自分が選んだんじゃないものが部屋の中にあるのって、大っ嫌いでさ〜困っちゃうよね〜。
光を全く跳ね返さないということだ。無色。つまり透明かと思うけれど、透明なものをそう認識できるのは、透けて見える向こう側があるからで、無色な世界、世界が丸ごと透明なら、視覚で透明さを認識することができるだろうか。視覚以外で透明さを認識することは?そこに無色の世界があるとどう気づくのか。触れればあるのはわかるだろう。しかし、そこにあるなにもかもが無色である。透明。どんな光も跳ね返さない。するとそれは“無色“だと名指す対象にならないのではないか。そこにあるなにもかもが透明なら、透明であることが常態であり、マジョリティであり、つまり、透明化される。透明化されたものは名指されない。特に世界と同化するよう透明化されたものは、ただ”多数“あるいは”権力“として、その場を支配し得る。名指されない、有徴化されないことを、透明化と言ったりする。つまり、あなたが、わたしが、ある部分を特徴として際立たせられカテゴライズされて、いない、場所は、無色の世界かもしれない。あなたが、わたしが、マジョリティでいる場所、自らの存在を訴えずとも、常に”いるもの“としてあつかわれる場所。常にいることを想定されているから、いるのだと声にしなくてもいい場所。いないとされたものたちの訴えを、まずはうるさいと思う暴力を何度でも何度でも気軽にふるえてしまうところ。
ところで、色づいた世界で“いないもの”としてあつかわれることもまた、透明化と言う。
政治の結果としての並木、公園、景勝地がある。東日本の桜なんてその最たるものだ。そこを並木にしたとき、そこを公園(あるいは前身は庭園だったり屋敷だったりしただろう)にしたとき、追い出されたものがある。
そこを人が集まる商業施設にしたとき、そこを線路にしたとき、そこを道路にしたとき、ダムにしたとき、飛行場にしたとき、基地にしたとき、追い出されるものがある。それらは抵抗する。その抵抗を知っているはずだ。知らないはずがない。それなのにすぐ忘れる。忘れるから誰かが常に声をあげている。忘れるから誰かがきっと記録を残している。探せばきっと記録はあると、思えるかどうかさえ実は政治の問題で、経緯を推移を記録を必ず残す、削除させない、破棄させない(破棄!!!!)、姿勢は万能感の顎から逃れることにも繋がるのに、万能感がお好きな人が多いようで本当にいやだ。ただ享受したっていい、でも調べればわかる、を手放してはならない。調べれば、きっとわかる、誰かが、どこかで、きっとバトンを置いてくれている。そう思えるところにいたい。
God Hates US ? Alright then…
だから、それでもやっていける。やっていくしかないしやっていかざるをえないし、だから結局やっていける。
絶望の話だし希望の話だ。
生き物として乗り込んで駆け抜ける。もはやそこに許しは必要ない。況んや、どうして赦しなんているだろう、ずっとここにいるのに。すでにここにいるのに。ただいるだけだ。それだけがなんの脅威か。分別くさい神の手に委ねるのをやめろ。その分別を疑え。権力を与えられたそれが何に支えられているのか何を支えているのかよく見て考えろ。誰を利するのか何を強化するのか、誰を追いやるのか何の存在を消し去っているのか。
批判的に見ることでやっと読める文章がある、やっと見れる映画もやっと聞ける音楽も。絵画も。建物も。被服も。家具も家電も薬品も食品もありとあらゆる解釈もなにもかも。神が創造したなにもかもだ。やつらはわたしたちのことを消し去ったのだから、消し去っているのだと充分に指摘してくれ。ここにいるものを無視したことを、もっと強く、激しく指摘してくれ。そうしてやっとそれを手に取れるものが、そうしてやっと、ここにいるのだとおもえるものが、そうしてやっと、生き延びるものが、あらゆるところにあるのだから。