いのちの数を灯す。お前が吹き消す。祝福に紛れて死神の高笑いが聴こえる。年齢分吹き消される蝋燭の数、その寿命年数分、それから+一本分の蝋燭が与えられている。ただの一本を吹き消す権利はお前にはない。ただの一本はいまこの瞬間も灯りゆるく輝いている。燃えている。あのひかりをお前が見ることはない。わたしが見ているあのひかりがお前に届くことはない。「近くで見て良いか」と、死神に乞う。いま我々の足元を照らすひかりの元は誰かの蝋燭だろうか。どうもよく見えない。お前の蝋燭だけがはっきり見える。死神は笑う。「それがお前の願いか?」顔など見えないがはっきり笑っているのが私には分かる。あの日蝋燭を吹き消して笑ったお前の顔を思い出す。ハッピー、ハッピーバースデー。私の祝福の声など届かなくても結構。
馬鹿だね。絵に描いて、うたを詠って、字を綴って、たくさんたくさん繰り返してそれらの想い出を遺そうとしている君が泣いている。「出逢い直すしかないの。新たな出逢いでしかないないの。思い出すごとにすべては変節して、変容して、ただしく思い出せない。古い記憶に新しく出逢い直してる。時間は刻々と流れる。私は1秒1秒変わる。あのときの私じゃない。同じ想い出であることは叶わない。これらはすべて想い出になり損ないの骸。もうやめたい、もうやめたいのに、どうしてこの手は止まらないの。どうしてこの口はうたうの」あの想い出たちはちゃんときみのなかで息づいていて、あるいは死んでいて、それでも君に愛されている。変わっていくことそのものが記憶のかたちなら、かなしむことじゃない。もちろんかなしんでもいいけど。君はたくさんの遺言を書き遺している。私の想い出も変わり続ける。もういない君に私は出逢い続ける。
冬になったら、あの日の話をするか。大寒の頃に南国に咲く桜の話をするか。お前と観に行ったあの桜の話をするか。花びらを分けて散らさず、ただ一緒になって頸ごとおちるあの桜の話をするか。
散り散りにならずに済んでいる。
散り散りになったらなったでいいのでは。
それでもまだ隣だ。まだ隣にある。
いまの俺らがあの桜の頸なのか、いまから分たれて散るのか、賭けてみるか?成立などしない賭けか?お前が握り返すその手の温度が答えだと、お前は知りもしないで笑う。だから俺も笑い返す。愛じゃない。親友じゃない。二人でひとつでもない。名前をつけられなくていいしつけられないと名付けて片付けてもいい。己の名前をつけられずに倦んでいた俺が、己の名前をつけざるを得ず倦んできたお前が。ただ相応しく、ただ互いに相応しくここに在る。
わたしたち、どうして。
いつか、あの日、今日、いま。
片時も、隙間なく、手を繋いでるのに、どうして。
君にもそんな時代があったのよ、と神は言う。君の長い尾は鱗で覆われ、君の三角の耳は人の耳になり、君のガラス玉のような目と珊瑚のような牙は、のっぺりとした板のようにぺったんこ。神が拾った子猫を背中に乗せ、君は丸くなって眠る。子猫はにゃあと鳴いている。君もにゃあと鳴いてみせる。君に声を出す器官はない。でもなんとなく、これが声の出し方だと覚えている。だから無音のにゃあを繰り返す。