【空に溶ける】
シャボン玉は、風のくしゃみにのって飛んでいった。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
空にとけて、かすかに音がした。
「ねえ、あれはどこへいくの?」
そうきくと、となりの子は笑った。
ふわふわ、とわらった。
「おかあさんの声のところ」
「うたの中の、まだおぼえてないところ」
「わたしのお兄ちゃんの、いなくなった場所」
シャボン玉は、ひとつも泣かなかった。
ただ、きらきらして、しんとして、
ぜんぶぜんぶ、なにもかも、うつして、
ぱちん、って、いなくなった。
雲のあいだから、ぱっぱっぱと音がした。
それが笑ったのか、さよならしたのか、
わたしには、まだわからない。
【 。】
靴底がぬかるみに沈むたび、水がぴちゃりと音を立てる。湿地の泥が、足に、意識に、命にまとわりついて離れない。
軍靴を履いた一列が、音もなく進んでいく。疲れ切っていた。兵も、心も、すでに限界だった。その中で、俺の隣にいたのは――ヤマトだった。
「なあ、帰れたら何する?」
ぽつりと、彼が言う。
この絶望の中で、唯一、声に色が残っていたのは彼だけだった。
「……母さんに謝るかな。ろくに話もしないで、出てきちまったから。
それから……柿の木、たぶん枯れてる」
自分でも何を言ってるのかわからなかったが、ヤマトは笑った。
「お前らしいな」
「……お前は?」
少し黙ったあと、彼はふっと遠くを見て言った。
「俺は帰れねえと思ってる」
「やめろよ」
「マジだ。なんとなくだけどな。だから、お前は帰れ。俺の分まで」
その瞬間、怒声が響いた。
「**班、突撃用意ッ!! 全員、前進ッ!!」
空気が張りつめた。
兵たちが泥を蹴って立ち上がる。
ヤマトも動いた。
だけど、俺の体は動かなかった。
――おかしい。
空が開けすぎている。
妙な静けさが続いている。
心が叫んでいた。動くな。
「ヤマト――!」
嫌な予感ほどよく当たる。
「まッ……」
爆音。
閃光。
轟音。
泥と血の匂い。
弾の雨が降る。
一瞬で全てが終わった。
気がつけば、俺だけが倒れていなかった。
それから数週間後、俺は“運良く”帰国した。
戦後
静かな病室の窓際で、俺は椅子に座っていた。通院は週に二度。他は特に何もない日々。時間が流れているのか、止まっているのか、わからない。
医者は言った。
「PTSDですね。あと……“ま行”が出ないのは、心因性の構音障害です」
“ま行”が出ない。
いや、“ま”が出ない。
喉が締まる。舌が動かない。吐き気がする。そのときの言葉が、“ま”だったからだ。
ヤマトに、あの一言を叫ぼうとして――言えなかった。それ以来、俺は時間の中に取り残されていた。
ある春の日、街角で子供の声がした。
「ちゃんと“まって”って言ったでしょー!」
その音が、耳に焼きつく。
景色が歪む。
色が消える。
音が引いていく。
まただ。
気づけば、別の場所に立っていた。時間が飛んでいる。俺の体が、俺のものでないような感覚。
医者は言った。「解離性障害も出ていますね」と。
わかってる。
でも、どうにもできない。
押し入れから、古びた手帳を取り出す。
従軍時の記録。泥だらけの過去。まだ、どこかでヤマトの声が聞こえる気がする。
「お前は帰れよ。俺の分まで」
俺は――帰ってきてしまった。
数週間後、戦没者の追悼式。
墓標に刻まれたヤマトの名前を前に、俺は立ち尽くしていた。
線香の煙が上がる。
花が揺れる。
風が吹く。
けれど、胸の奥は冷たいままだ。
あの時、「まって」と言えていれば――。
もっと早く、空の違和感に気づいていれば。伏兵の気配を、上官に報告していれば。止められたんじゃないか? 助けられたんじゃないか?
たらればが尽きない。
けれど、本当にできていたのか。言えていたら、動けていたら、ヤマトは死なずに済んだのか。
……それすら、もうわからない。
ただ確かなのは、あいつが死んで、俺だけが生き残ったということ。
なぜ、俺が。
なぜ、あいつじゃなくて――。
伝えなきゃ。
あのとき言えなかった言葉を。
今こそ、言わなきゃ。何度も息を吸って、喉に絡まるものを押しのけて、口を開いた。
「…………」
沈黙。
涙が、先に零れた。
「………………」
それでも、もう一度。
「………………」
喉が震える。
肺が焼ける。
それでも――
「…………」
……届かない。
また、声は出なかった。
けれど、その沈黙の先にある音を、
ヤマトならきっと、わかってくれる気がした。
だから、俺は手帳に書いた。
"まって。"
それが、俺の――あの日の、答えだった。
『星のかけら』
夜空を滑るように飛び回る流れ星の双子、キラリとピカリ。今日も地球を巡り、星空に美しい線を描いていた。
「ねえ、ピカリ。ちゃんとついてきてる?」
「もちろんだよ、キラリ。心配しないで!」
しかし、その返事もつかの間、ピカリはいつの間にか眠りに落ち、軌道を外れて地上へと落ちてしまった。
慌てたキラリは、すぐに地上へ降り立ったが、ピカリの姿はどこにも見当たらない。住人たちに尋ねて回ると、ある場所で「光る欠片」を集めている人々に出会った。
「これ、あなたの仲間?」
差し出されたのは歪な形をしたピカリだった。落下の衝撃でバラバラになったピカリを、住人たちが集めて組み立てようとしたのだが、元の形が分からず、どこかちぐはぐな姿になっていた。
「何をしてるの!」
キラリは怒りを露わにし、住人たちを責めた。しかし、住人たちは戸惑いながらも事情を説明する。彼らは純粋な善意からピカリを元に戻そうとしていたのだと知り、キラリは涙をこぼした。
「ごめんなさい……。怒ってしまって。でも、ピカリを助けようとしてくれてありがとう。」
キラリと住人たちは和解し、協力してピカリを元に戻す作業を始めた。しかし、どうしても最後のひとかけらが見つからない。
どこを探しても見つからず、キラリは自分を責め始めた。「私がもっと注意していれば、こんなことにはならなかった……」
そのとき、キラリはふとピカリとの記憶を思い出した。
「どんなに離れても、僕たちは一緒だよ。だって僕の心はいつだって君の中にあるから。」
その言葉を信じ、キラリは胸に手を当てた。すると、淡い光が手のひらから溢れ出し、最後のひとかけらが姿を現した。
「これがピカリの心……。ずっと私の中にあったんだね。」
住人たちの手を借りてそのひとかけらをピカリに戻すと、ピカリは元の姿に蘇り、再び輝きを取り戻した。
「ありがとう、キラリ。そして地上のみんなも。」
ピカリは感謝の言葉を住人たちに伝え、キラリと共に空へ戻ることを決めた。その夜、空に浮かぶ星々の間に、双子の流れ星が再び光の軌跡を描いた。
地上には、ピカリが残した優しい光が住人たちを照らし続けていた。
【思い出の亡き貝】
黄昏時――波が静かに打ち寄せる浜辺に、彼女は足を踏み入れた。
理由もなく、ただ足が向くままに歩く。
心の中には、何か引っかかるものがあるような気がしていたが、それが何なのかはわからなかった。
砂浜に目を向けると、一つの巻貝が転がっていた。淡い色合いの貝殻は、陽の光に反射してわずかに輝いている。それは、どこか懐かしさを感じさせるようなものだった。
ふと手を伸ばし、貝殻を拾い上げ自然と耳に当てた。そういえば、昔もこんなことがあった――そう思った瞬間、忘れていた記憶が音と共に蘇った。
「海の音が聞こえるよ、耳を澄ませてごらん」
連れられて、初めて海に来たあの日。
彼が微笑みながら同じように貝殻を耳に押し当ててくれたことを思い出す。
まだ若かった自分は、それを不思議そうに聞きながらも、どこか魔法のようだと感じていた。何度も浜辺で遊び、波に揺られた時間があった。二人で同じ貝殻を拾い、笑い合ったあの日々が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
しかし、その笑顔はもうない。彼は、もうこの世にはいないのだ。
押し寄せる感情は、まるで荒れ狂う波のように彼女を飲み込んでいった。過去の楽しかった思い出が、重く心にのしかかる。これ以上、彼との時間は戻ってこない。
もう一度、最後に、一度だけでもいいからと、あの笑顔を見たいと願っても、その望みは叶わない。
気づけば涙が頬を伝っていた。感情の波は次第に大きくなり、彼女を岸から遠ざけようとする。必死にもがいて、涙の海から逃れようとした。しかし、その波は強く、まるで彼女を引き寄せて離さない。
やがて、ひとしきり泣いた後、彼女は次第に静けさを取り戻した。心の中で荒れ狂っていた感情も、波が引くように少しずつ消えていった。
貝殻を耳からそっと離し、彼女はもう一度それを見つめた。
何も言わずに、貝殻を静かに砂の上に戻す。まるでその場所に置くことで、彼との記憶を静かに送り出すかのように。
立ち上がり、深呼吸を一つする。海風が頬を撫で、涙の痕をさらっていった。足元をしっかりと固め、もう一度浜辺を見渡す。すべてが元通り、ただ静かな浜辺だけがそこにあった。
彼女は、足を進め、浜辺を後にした。
【きらめき】
カメラのフラッシュが瞬く度、
その光は一瞬にして世界を照らし出す。
あなたの笑顔、瞳の輝き、
その全てが永遠の瞬間として切り取られる。
一つ一つのフラッシュが、
まるで星が夜空に瞬くように、
あなたの存在を輝かせる。
その光は決して消えることなく、
記憶の中でいつまでもきらめき続ける。
自分の中に秘めた輝きが、
この世界に新たな色を与える。
その一瞬のきらめきが、
未来を変える力を持っている。
そして、そのきらめきは、
あなたが歩む道を常に明るく照らし出す。
次々と切られるフラッシュのように、
一瞬一瞬を大切に、輝き続ける。