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靴底がぬかるみに沈むたび、水がぴちゃりと音を立てる。湿地の泥が、足に、意識に、命にまとわりついて離れない。
軍靴を履いた一列が、音もなく進んでいく。疲れ切っていた。兵も、心も、すでに限界だった。その中で、俺の隣にいたのは――ヤマトだった。
「なあ、帰れたら何する?」
ぽつりと、彼が言う。
この絶望の中で、唯一、声に色が残っていたのは彼だけだった。
「……母さんに謝るかな。ろくに話もしないで、出てきちまったから。
それから……柿の木、たぶん枯れてる」
自分でも何を言ってるのかわからなかったが、ヤマトは笑った。
「お前らしいな」
「……お前は?」
少し黙ったあと、彼はふっと遠くを見て言った。
「俺は帰れねえと思ってる」
「やめろよ」
「マジだ。なんとなくだけどな。だから、お前は帰れ。俺の分まで」
その瞬間、怒声が響いた。
「**班、突撃用意ッ!! 全員、前進ッ!!」
空気が張りつめた。
兵たちが泥を蹴って立ち上がる。
ヤマトも動いた。
だけど、俺の体は動かなかった。
――おかしい。
空が開けすぎている。
妙な静けさが続いている。
心が叫んでいた。動くな。
「ヤマト――!」
嫌な予感ほどよく当たる。
「まッ……」
爆音。
閃光。
轟音。
泥と血の匂い。
弾の雨が降る。
一瞬で全てが終わった。
気がつけば、俺だけが倒れていなかった。
それから数週間後、俺は“運良く”帰国した。
戦後
静かな病室の窓際で、俺は椅子に座っていた。通院は週に二度。他は特に何もない日々。時間が流れているのか、止まっているのか、わからない。
医者は言った。
「PTSDですね。あと……“ま行”が出ないのは、心因性の構音障害です」
“ま行”が出ない。
いや、“ま”が出ない。
喉が締まる。舌が動かない。吐き気がする。そのときの言葉が、“ま”だったからだ。
ヤマトに、あの一言を叫ぼうとして――言えなかった。それ以来、俺は時間の中に取り残されていた。
ある春の日、街角で子供の声がした。
「ちゃんと“まって”って言ったでしょー!」
その音が、耳に焼きつく。
景色が歪む。
色が消える。
音が引いていく。
まただ。
気づけば、別の場所に立っていた。時間が飛んでいる。俺の体が、俺のものでないような感覚。
医者は言った。「解離性障害も出ていますね」と。
わかってる。
でも、どうにもできない。
押し入れから、古びた手帳を取り出す。
従軍時の記録。泥だらけの過去。まだ、どこかでヤマトの声が聞こえる気がする。
「お前は帰れよ。俺の分まで」
俺は――帰ってきてしまった。
数週間後、戦没者の追悼式。
墓標に刻まれたヤマトの名前を前に、俺は立ち尽くしていた。
線香の煙が上がる。
花が揺れる。
風が吹く。
けれど、胸の奥は冷たいままだ。
あの時、「まって」と言えていれば――。
もっと早く、空の違和感に気づいていれば。伏兵の気配を、上官に報告していれば。止められたんじゃないか? 助けられたんじゃないか?
たらればが尽きない。
けれど、本当にできていたのか。言えていたら、動けていたら、ヤマトは死なずに済んだのか。
……それすら、もうわからない。
ただ確かなのは、あいつが死んで、俺だけが生き残ったということ。
なぜ、俺が。
なぜ、あいつじゃなくて――。
伝えなきゃ。
あのとき言えなかった言葉を。
今こそ、言わなきゃ。何度も息を吸って、喉に絡まるものを押しのけて、口を開いた。
「…………」
沈黙。
涙が、先に零れた。
「………………」
それでも、もう一度。
「………………」
喉が震える。
肺が焼ける。
それでも――
「…………」
……届かない。
また、声は出なかった。
けれど、その沈黙の先にある音を、
ヤマトならきっと、わかってくれる気がした。
だから、俺は手帳に書いた。
"まって。"
それが、俺の――あの日の、答えだった。
5/19/2025, 11:16:18 AM