心温まる話が出てこない。
むしろ、手を繋ぐ……パーソナルスペースを越える身体接触?
外国人は挨拶としてよく握手するが、お辞儀文化の日本人の距離感に慣れていると、人の手に触れることに抵抗がある。
子どものときは手繋ぎ鬼をしたり大人と手を繋いだり、わりと平気だったのが、自我が固まってくると他人との接触にためらいが出てくる。危機回避のためには自然なことかもしれない。
もう一生することはないだろうフォークダンスとか、介助とか、必要に迫られてする以外で、手を繋ぐという行為は性別問わず信頼する相手でないと厳しい。
手を繫げそうな相手を思い浮かべるとごく少数で、やはり特別に思っている人たちだ。
『手を繋いで』
ありがとう、ごめんねと言いたい相手。とりあえず親だろうか。
まずは育ててもらったこと、窮地で世話になったことの礼。そして謝罪。
不肖の子どもで申し訳ない。
期待を裏切って申し訳ない。
親の期待を裏切ったという自覚はあるし、実際に言われもしたけど、そのことで悶々とする時期は過ぎた。
ただ努力をすべきときに思いきり努力をしなかったことが人生に反映されていると、それは痛感している。精神的な面でも。
あのとき努力していれば、親の期待通りの人生でなくても別の人生が待っていたかもしれない。しかし、こういうふうに生まれてしまったのだから仕方ない。
開き直れるほどには年をとった。
失望しつつも放り出さなかった親にはやはり感謝している。
遅ればせながら今後の人生は少しは努力する予定。自分のために。
『ありがとう、ごめんね』
部屋の片隅にあるもの。
それは円くて黒いロボット掃除機。
大枚はたいて買った甲斐があったと思う。
まず部屋が片付く。床に物があると(よける努力はしてくれるけれど)作業効率が落ちるので、撤去したり棚にしまわないといけない。
つまり自分が片付けモードに入らないと稼働できない。
そもそも基地となる場所を作り出さないといけない。無事使えるようになるまで数日かかった。
フローリングをきれいに掃除してくれる。
ただし我が家のラグとは相性が悪いようで、自分でこまめに掃除機(従来の)をかけるようになった。フローリングとの対比でラグのゴミが気になるからだ。
怠惰な自分をちょっと成長させてくれた気がする。
こちらの指一本で黙々と、いや音を立てながら掃除する姿を見ていると健気にすら思えてくる。
今日も部屋の片隅で従順に待機している。
『部屋の片隅で』
子どもの頃、なぜか砂時計を見るのが好きだった。
砂が下にさらさら落ちると、真ん中に凹みが生まれる。その凹みがじょじょに広がってカルデラのようになるにつれ砂のかさが減っていく。下にはなだらかな円錐形の山ができている。
最後の砂がカーブをつたって流れ落ちるのを見届けると、逆さまにしてもう一回。飽きずに眺めていた。
三分間。
今ならそんな短い間でも集中して見ていられるだろうか。
それでも、久しぶりに砂が落ちる様子が見たい。歯磨きのときにひっくり返してみようか。
『逆さま』
眠れないほどスマホを見ている。深夜まで。依存症かというくらいずっと。いや、既にスマホ依存、ネット依存の域に達していると思う。
スマホで次から次へと情報が目に入ると脳内麻薬ドーパミンがどばどば分泌されて、分泌されなくなるともっと欲しくなる、この繰り返しらしい。
だから切り上げ時が分からず眠れなくなる。
自分の容量の少ない頭は日ごろからスマホ経由の情報が過多で、他が入る隙がないためまず本を読まなくなった。
なんとかすべく『スマホ脳』という本を買ったはいいけれど、まだ表紙すら開いていない有り様。
インプットばかりしていると、頭の中で情報の交通整理が追いつかず渋滞する。
情報はたくさん入る、しかし理解はしていない状態が続いて、睡眠不足と加齢もあって頭がどんどん衰えていくのを感じる。
というわけで、心身のためにもアウトプットをしようと書く習慣を始めたが、確かに頭を久しぶりに使っている感覚がある。もう息が上がるほど。
しかしスマホで打っているので、結局スマホの使用時間はそんなに変わっていない……。
『眠れないほど』