「幸せになりたい」
真昼間の屋上で、もはや口癖と化したその台詞を長い長いため息と共に吐き出す。
目の前を塞ぐように立つ古ぼけた柵にもたれかかると、ギシギシと嫌な音を立てた。
毎日が退屈で、同じことの繰り返しだ。まるで、動物園の狭い檻に入れられて何度も同じところをぐるぐると歩いているトラみたいに。
そんな日々に心底嫌気がさしている。周りを見渡せばみんなが幸せそうに見えて、自分だけが取り残されているような気がした。
眼下を見下ろして、行き交う人々を眺める。
集団で歩く若者。手を繋いで寄り添うカップル。
急ぎ足のビジネスマン。観光客らしき外国人。
彼らは今、いったい何を考えているのだろう。
びゅう、と一際強く吹いた風が、長い髪をバサバサと乱した。
「幸せって、そんなに大きくなきゃいけないの?」
いつかの友人の言葉が脳裏によぎる。
結婚?安定した暮らし?元気な子どもを産むこと?数え切れないほどの友達?
もちろんそれは幸せなことさ。でも、じゃあそれらを手にしていない人は不幸なのかい?
いいや、決してそうじゃない。
小さな幸せを探してみてごらん。
案外、近くに転がっているものだよ。
独特の気障ったらしい言い回しが耳につく。彼の純粋さを反映するかのように澄み切ったその青い瞳を真っ直ぐに受けると、ひどく胸がざわざわした。
自分の中の、幼くて未熟で汚い部分を、認めざるを得なかった。
「うるさいうるさい。分かったようなことを言うな」
頭の中の残像を打ち消すかのようにかぶりを振って、大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺いっぱいに入り込む。いまだにジメジメとした胸の奥にまで、この新鮮な酸素が届けばいいのに。
目を上げれば、私のちっぽけな悩みなんか笑い飛ばすかのように、空は鮮やかに青く、太陽は眩しく照りつけている。それらをじっと睨みつけ、踵を返した。
風で乱れた髪をまとめて一つに結わう。
「だいぶ伸びたな」
低めのポニーテールをゆるりと撫でながら、今度髪を切りに行こう、なんてそんなことを考えた。
『幸せとは』
広くて大きな空を見ていると、自分の悩みなんてちっぽけに思えてくる。
こんな台詞、一体誰が言い始めたのだろう。
そんなのはうそだ。少なくとも今の僕には当てはまらない。これっぽっちもね。
見上げた空はどこまでも青い。
それはもう、煩いほどに青い。
太陽はジリジリと照り付けている。
流れる雲を眺めていたって、僕の心を晴らしてくれるわけじゃあない。
空はただそこに在る。
青く、遠く、広がっているだけなんだ。
視界を鳥が横切る。鳩か、烏か。
そんなのはどうでもいいことだ。
「いいなあ…」
いつの間にか口癖になってしまった言葉がぽろりと溢れる。
僕にも、翼があったらな。
この窮屈で閉鎖的で鬱々とした日々から逃げ出せるのに。広い空を自由に飛んで、どこまでも遠くまで行ってしまえるのに。
❄︎
痛いほどの空の青さに目を閉じる。
僕は白昼夢を見る。身体がふわりふわりと、空気中に溶けていく。
この瞬間だけは、僕は僕のものだ。
現実世界に引き戻される、その時まで。
あの人からの呼び出し音が、鳴るまでは。
『大空』
ベルが鳴る。
壊れかけのそれは途切れ途切れの乾いた音を鳴らす。
1回、2回。
身体が重い。ベッドにいまだ沈みながら、遠くで響くベルの音に脳だけが緩く覚醒していく。
3回、4回。
今日の訪問客はなかなかに辛抱強いらしい。
鉛のようにずっしりと質量を持った両腕と、古びたブリキのおもちゃみたいにギシギシと音を立てる両脚に力を込めて、ようやくベッドから立ち上がる。
5回、6回と鳴った所で私は玄関の扉を開けた。
『 Merry Christmas! 』
目の前には小さなサンタクロースがいた。
まだ幼い子どものように見える彼は、しかしとても大人びたように恭しく一礼をした。
『はじめまして』
そう声を掛けられて、停止していた思考がようやく動き出す。
私の胸にも届かないほどの背丈。赤と白を基調とした、ぼんぼりのついた帽子とふわふわのマント。
やわらかく透き通った声、少し赤い頬と鼻、満面の笑顔。
小さな両手を後手に組んで、私の反応を待っているようだった。
「えっと…君はだれ?」
私がそう訊くと、小さなサンタクロースはパッと目を輝かせてこう言った。
『僕は、“貴方”をお守りする様雇われた精です』
『“貴方”が最近笑えなくなってきたっていうから来たよ』
それは歌うような、とても美しい響きだった。
『ベルの音』
「灯火」Mrs.GREEN APPLEより
私の思考はコロコロころころコロコロと
移っては消えまた移っては飛び跳ねていなくなる。
くだらない独り言がそうしているうちは可愛いが、
大事な何かが思い浮かんだ時にもそれはなんでもないような顔をして、あっさりと後ろ順番待ちの、今日の晩ご飯は何にするか?に席を譲ってしまうのだから困りものだ。
そうして君の次の順番は一体いつ回ってくるんだい?
できるだけ早めに戻って来てくれると嬉しいのだが。
とりとめのない、私の頭の中の話。
“行ってきます”
そう言ってあの子は空を飛んだ。
すぐそこのコンビニに行くかのような軽さだった。
この世界に未練など微塵もないような。
待ち望んだ平穏をようやく手にしたような。
やさしく凪いだ顔だった。
私は動けなかった。あの子の冷たい手のひらを強く掴んで引き戻すことは出来なかった。
そうすべきことは理解っていた。それでも。
命を軽んじていると非難されるかもしれない。
きっといつか幸せな未来が訪れたかもしれない。
生きてさえいれば。
いつ抜け出せるか知れない地獄の底で、生きて、いたって。
あの子が、
ほんの少しの希望をそこに見出したのなら。
強く拳を握りしめる。
あの子を受け止めた広い空を睨みつける。
あの子の後ろ姿を見送ることしかできなかった私には、何も言う資格がない。
ただ、“さよなら”は言わない。
絶対にまた、必ず。
きみに会いに行く。
『さよならは言わないで』