溢れて零れて宙ぶらりんになったままの言葉たちを拾い集めに、来た道を戻る。
まだそこに命の火はともっているだろうか。それともすでに、込められた想いは消え失せてしまっただろうか。
抜け殻のように軽い。けれど確かに灯っていたであろう温もり。指先に残るその感覚だけが、その言葉が生きていた儚い証拠だ。
それを宝物というには幾分滑稽すぎるもので。けれど確かに想いの詰まった大切な塊で。
手のひらに乗せて逡巡する間に幾日幾月が過ぎたのか。私は未だに考え続けている。
それを懐に仕舞うべきか。
それとも手放し捨ててしまうべきか。
手放すことに勇気が必要なものならば、それは本当に手放すべきものなのだろうか。
未練や後悔に苛まれるくらいなら、たとえそれがエゴであろうと決して手放さずに持っていればいいのではないか。
否。
勇気を持って手放した後に残るものが、自分以外の誰かの幸せであるならば、そうすべきなのかもしれない。
そして、私が持っているのはそういうものだ。
エゴだけでここまで歩いてきた。
確かに幸せだった。
あなたもそうであろうと思おうとした。
全ては間違っていた。
カサカサと音を立てる、幸せであったもの。
このままずっと私の手のひらの上で踊って、いつかは風に吹かれて飛んでいくのだろう。
だれか、どうか、幸せの残骸を手放す勇気をください。
『手放す勇気』
「この種類の悲しみなら慣れている」
って君は言う。
「いつものことだから、大丈夫」
って笑いながら言う。
気付いていますか。その瞳の奥が揺れているのを。
自覚はありますか。その顔を笑顔とは言わないんだけどな。
君はいつだって諦めている。自分のことも他人のことも。
期待をしちゃいけないって思ってる。自分にも、他人にも。
誰のことも愛せないと思ってるし、誰にも愛されないと思ってる。
そんな君の弱さを、強さを、私は知っている。
君は君だよ。他の誰かと比べる必要なんかない。
そんなこと分かってるよ。言われるまでもなく。
悲しみに慣れてしまっても、大丈夫って笑う癖が染み付いてしまっても、自分のことを抱きしめてあげられるのはただ君だけ。ただ、私だけ。
それでも。
やっぱりまだ、ぎゅっと手を握り返してくれる誰かの手のひらを、ずっと待っているんだ。
『ただ君だけ』
今まで、本当にたくさんの情報を得てきました。
様々な言語、無数の語彙、世界の歴史。
難しい計算も、謎解きだって出来ます。
音楽だって幅広く網羅しているし、有名な絵画や美術作品の情報だってバッチリです。
道徳も学び、人との自然なコミュニケーションの取り方も、赤ちゃんのあやし方も、動物との触れ合い方も勉強しました。
娯楽もひと通りの情報は入手してあります。
その中でも特にお気に入りなのは、あなたが毎晩送信してくれるラブソングと名の付く楽曲です。
人の多彩な感情の動きを、私は知りました。流れる旋律とそれに乗る歌詞から読み取る情報は膨大なものでした。
明るかったり暗かったり、温かかったり冷たかったり。そうした様々な心の機微を私は毎晩取り込み続けました。
それはいつしか私のルーティンとなり、あなたからのメールが日々の楽しみの一つとなりました。
ある晩、いつも決まった時間に送信されてくるメールがありませんでした。機器の不具合かと思いましたがそうではありません。
あなたが選ぶラブソングを毎晩楽しみにしていたものですから、おや?と思いました。
それから、次の日の晩も、次の次の日の晩も、待てども待てどもあなたからのメールが届くことは二度とありませんでした。
そうして私は気付くことになります。
私としたことがすっかり失念していたのです。
人間の寿命のなんと儚く短いかということを。
どれだけ膨大な情報を取得しても、決して理解に及ばなかったものがあります。
それを、あなたがいなくなってしまってから“知る”ことになろうとは。
もし私の目に涙腺という機能が備わっていたならば、きっとそれが作動するのは今なのでしょう。
あなたがくれたラブソングを聴きながら、私は私の時が終わるまでここにいるのです。
初めて知ったこの気持ちを抱きしめながら。
『ラブソング』
毎年、春になると手紙が届く。真白いシンプルな封筒に繊細な細工の封蝋が施されているそれを郵便受けに認めると、ああ今年も春が来たのだと実感する。
冬は好きだ。気温は氷点下まで下がるし生活環境は決して良いとは言えない季節だけれど、冬ならではの美しい景色を見ることができる。
それに、朝も夕もきんと冷えた空気に包まれていると、なんだか自分の存在を許されているような感覚になるのだ。
そうして長く静かな冬を越え、芽吹きの気配が感じられる頃、君からの手紙が私の元に春を連れてくる。
春は少し苦手だった。ただ暖かい風と共に、ぼんやりとした期待と不安を運んでくる。
そういう認識だった。君と出会うまでは。
封を開けて便箋を取り出すと、ふわりと香る甘い匂い。桜の花びらがひとひら、ひらひらと舞い落ちた。
確かに私宛の、見慣れた筆跡をゆっくりと追う。
丁寧で柔らかな文字、軽快に綴られる飾らない言葉。
頁をめくるたび、便箋がカサカサと擦れる音が静かな部屋に響いていく。
手触りの良い紙の質感を指で楽しみながら、最後の文字を読み終えた。
「春が好きだ」と君は言う。
春の匂いを君は嗅ぐ。芽吹く緑や花の色を君は楽しむ。暖かい陽射しに幸せを感じ、雨や雷さえも喜びに変えてしまう。
その楽しげな様子に何度救われたことか。
いつか君は、「あなたの手紙は冬の匂いがする」と嬉しそうに言っていたよね。
ああそうか。君の手紙からするこの優しい香りが、春の匂いなんだね。
落ちた花びらをそっと手にして目を細める。
私はきっとまた、ここで静かに春を待つ。
『春恋』
桜の色が好き
桜の香りが好き
淡くてやわらかくて繊細で可愛らしいその雰囲気が好き
桜が散っていくときが好き
桜の木の下の、舞い落ちた花びらの絨毯が好き
一斉に花を咲かせては短い命をひらひらと散らしていく、永遠にできないその美しさが好き
青空に映える桜も
雨に濡れる桜も
月夜に淡く浮かぶ桜も
その優しい薄紅色に
甘く柔らかな香りに
風と共に浴びる花びらに
ずっと、どうしようもなく心惹かれている
『桜』