ひとつ、ふたつ。
視界をぼんやりと歪ませては落ちていくもの。
みっつ、よっつ。
それは窓越しの黄色い街灯を反射して光る。
じんわりと湧き上がっては、ほろりほろりと、時には手の甲を転がり落ちて。
いつつ、むっつ。
薄暗い部屋でベッドに腰掛け、濡れた頬もそのままに、色を濃くしたシャツの裾を握り締める。
力の入った指先は白く冷たい。
眼球は静かに熱く燃えている。
怒りも哀しみも、後悔も自責の念も、行き場を失ったこの愛も。
ぜんぶ全部、涙に溶けて私の外へ出て行ってはくれないか。
ざあざあと遠慮もなく町に降る雨のように、全てを流し去ってはくれないか。
引き攣る呼吸の合間に、長く、重く、腹に溜まった息を吐く。
一緒に漏れ出た震える声が、嗚呼、もうどうしようもなく情けない声が、目頭をきゅうと締め付けた。
この感情を涙に変えられたとして、一体何が変わるというのだろう。
いや、そんなことは分かっているのだ。
何も変わらなくとも、今はただ。
それからどれ程の時間が経っただろうか。
纏まりのつかない考えがごちゃごちゃと頭の中で絡まっている。
熱い。寒い。同時に眠気が襲ってくる。
なんだかもう霞がかったような思考の中、まるで泣き疲れて眠る赤子のようだと、ふと思う。
少しだけ、おかしくなって力が抜けた。
そうして涙も乾くころ、大きく息を吸い込んで、私はひとつ小さな咳をした。
『透明な涙』
そっとここに置いておく。
昨日の夜明け前の話。
太陽が顔を出す少し前、
夜明け前の濃い暗闇に浮かんだ月がとても綺麗だった。
雲の切れ間から顔を覗かせる凛と澄んだ月も、
薄雲に霞んでベールを纏ったような淡い月も、
刻一刻と変化するその表情を、寒空の下でずっと眺めていたかった。
『そっと』
『あんたたちにこの気持ちは分からないよ!』
そう言った彼女の顔は、怒りも悲しみも寂しさも後悔も、全部混ぜこぜにしてぎゅうと詰め込んだような、くしゃくしゃの表情をしていた。
祖父が亡くなってもうすぐ一年が経とうとしている。
「ばあちゃん、こんにちは。お邪魔するよ」
耳の遠い祖母に聞こえるように大きな声で呼びかけると、ドアの向こうから
「あらあ、いらっしゃい」と言う弾んだ声が聞こえてくる。
玄関から続く居間のドアを開けて一歩入るや否や、ふわりと香るアルコールの匂い。酔っ払い特有のとろんとした目と目が合う。
今日はもう既にどれほど飲んだのか。焼酎の小さなカップを片手に私を迎えてくれた彼女の前には、空になった同じものが幾つか転がっていた。
祖父が亡くなってからというもの、祖母のアルコール摂取量は甚だしく増えた。
生前の祖父母の関係は当時にしては少し特殊であって、祖父が仕事もしながらほぼ全ての家事や身の回りのことを担当し、祖母はというと、仕事を人生の生きがいとするように身を粉にして働いていた。
もちろん祖父はそれらを好きでやっていたし、祖母は朝から晩まで働きながら、義父母の介護や育児に奔走したりもした。定年も過ぎてしゃかりきに働く時期が終わってからも、祖父が作ってくれる弁当を持って仕事に出かけ、空いた時間は野生児のように一人で山へ川へと出かけていくような人だった。
実にユニークな関係性だが、二人にとってそれがベストであったならばそれはそれで良いのだ。
そのような訳で、祖母の生活は祖父に全く依存したものであった。そしてその絶妙なバランスは、祖父の突然の死によって大きく崩れることになる。
精神的支柱を失った彼女の、次の依存先が、アルコールというわけである。
「よく来たねえ」と回らない呂律で嬉し気に話すのに軽く愛想をしながら、空瓶を回収する。
昨日も来たのだというのに、全く毎回のように、遠方からわざわざ訪れた孫という認識で私に話すのだから可笑しい。
祖父が亡くなってから、私は祖母が涙を流している姿を一度も見たことがない。人前では泣かないと決めているのか、または“泣けない”のか。
いずれにしても、ひとりでは抱えられない程大きな喪失感を彼女はこれまでずっと耐え、そしてこれからも耐えようとしているのだ。
「ごはんは食べたの?」
テーブル周りを片付けながらそう問いかけると、
「これがあれば充〜分」なんて言いながら焼酎を軽く掲げて、愉快げに笑う。
もちろん良いわけはない。七十も後半になってからのアルコールの大量摂取は、祖母の認知症をますます進め、日常生活にも支障が出ている。数回行ったきり病院にはもう絶対に行きたがらない。
冷蔵庫を覗いて食材を確認する。
半端になったキャベツや肉を取り出してザクザクと切りながら、私はいつかの彼女の叫びを思い出していた。
『あんたたちにこの気持ちは分からないよ!』
手を止め、祖母を振り返る。
ぼうっと窓の外を眺めながら、ちびちびと焼酎を含んでいる背中がやけに小さく見えた。
あれは、彼女の心の叫びだった。
祖父が亡くなってすぐの頃、あの頃はみんな気が立っていた。寂しいね、辛いねとゆっくり悲しむ暇もなく、やるべき事は山積みだった。予期せぬ問題も発覚した。祖母はますます酒に浸るようになっていった。今思えば、あの時もう少し彼女の心のケアをみんなでしてあげるべきだった。
長年連れ添った配偶者を亡くすことは、寄り添うように植えられた二本の樹が無理やりに引き剥がされることに似ている、という話を聞いたことがある。
根は地中深くまで伸びて、複雑に絡まり合っている。その一方が引き抜かれれば、もう一方の根は、時には修復が不可能に思えるほどひどく傷を負うことになるだろう。
私にはその痛みが分からない。
経験がないことは想像するしかないが、私のこの貧相な想像力では、彼女の感情に触れるにはとてもじゃないが足りないだろう。
幸も不幸も、愛も憎しみも、越えたところに二人はいたのだろう。
それは私の知らない景色。あるいは一生辿り着けない場所かもしれないのだ。
「はい、どうぞ」
まだ湯気の立つ野菜炒めをテーブルに置く。
ゆっくりと窓の外から視線を移し、祖母は皿と私の顔を交互に見てから、「ありがとね」と笑って残りの酒をぐいと飲み干した。
『まだ見ぬ景色』
「幸せになりたい」
真昼間の屋上で、もはや口癖と化したその台詞を長い長いため息と共に吐き出す。
目の前を塞ぐように立つ古ぼけた柵にもたれかかると、ギシギシと嫌な音を立てた。
毎日が退屈で、同じことの繰り返しだ。まるで、動物園の狭い檻に入れられて何度も同じところをぐるぐると歩いているトラみたいに。
そんな日々に心底嫌気がさしている。周りを見渡せばみんなが幸せそうに見えて、自分だけが取り残されているような気がした。
眼下を見下ろして、行き交う人々を眺める。
集団で歩く若者。手を繋いで寄り添うカップル。
急ぎ足のビジネスマン。観光客らしき外国人。
彼らは今、いったい何を考えているのだろう。
びゅう、と一際強く吹いた風が、長い髪をバサバサと乱した。
「幸せって、そんなに大きくなきゃいけないの?」
いつかの友人の言葉が脳裏によぎる。
結婚?安定した暮らし?元気な子どもを産むこと?数え切れないほどの友達?
もちろんそれは幸せなことさ。でも、じゃあそれらを手にしていない人は不幸なのかい?
いいや、決してそうじゃない。
小さな幸せを探してみてごらん。
案外、近くに転がっているものだよ。
独特の気障ったらしい言い回しが耳につく。彼の純粋さを反映するかのように澄み切ったその青い瞳を真っ直ぐに受けると、ひどく胸がざわざわした。
自分の中の、幼くて未熟で汚い部分を、認めざるを得なかった。
「うるさいうるさい。分かったようなことを言うな」
頭の中の残像を打ち消すかのようにかぶりを振って、大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺いっぱいに入り込む。いまだにジメジメとした胸の奥にまで、この新鮮な酸素が届けばいいのに。
目を上げれば、私のちっぽけな悩みなんか笑い飛ばすかのように、空は鮮やかに青く、太陽は眩しく照りつけている。それらをじっと睨みつけ、踵を返した。
風で乱れた髪をまとめて一つに結わう。
「だいぶ伸びたな」
低めのポニーテールをゆるりと撫でながら、今度髪を切りに行こう、なんてそんなことを考えた。
『幸せとは』
広くて大きな空を見ていると、自分の悩みなんてちっぽけに思えてくる。
こんな台詞、一体誰が言い始めたのだろう。
そんなのはうそだ。少なくとも今の僕には当てはまらない。これっぽっちもね。
見上げた空はどこまでも青い。
それはもう、煩いほどに青い。
太陽はジリジリと照り付けている。
流れる雲を眺めていたって、僕の心を晴らしてくれるわけじゃあない。
空はただそこに在る。
青く、遠く、広がっているだけなんだ。
視界を鳥が横切る。鳩か、烏か。
そんなのはどうでもいいことだ。
「いいなあ…」
いつの間にか口癖になってしまった言葉がぽろりと溢れる。
僕にも、翼があったらな。
この窮屈で閉鎖的で鬱々とした日々から逃げ出せるのに。広い空を自由に飛んで、どこまでも遠くまで行ってしまえるのに。
❄︎
痛いほどの空の青さに目を閉じる。
僕は白昼夢を見る。身体がふわりふわりと、空気中に溶けていく。
この瞬間だけは、僕は僕のものだ。
現実世界に引き戻される、その時まで。
あの人からの呼び出し音が、鳴るまでは。
『大空』