毎年、春になると手紙が届く。真白いシンプルな封筒に繊細な細工の封蝋が施されているそれを郵便受けに認めると、ああ今年も春が来たのだと実感する。
冬は好きだ。気温は氷点下まで下がるし生活環境は決して良いとは言えない季節だけれど、冬ならではの美しい景色を見ることができる。
それに、朝も夕もきんと冷えた空気に包まれていると、なんだか自分の存在を許されているような感覚になるのだ。
そうして長く静かな冬を越え、芽吹きの気配が感じられる頃、君からの手紙が私の元に春を連れてくる。
春は少し苦手だった。ただ暖かい風と共に、ぼんやりとした期待と不安を運んでくる。
そういう認識だった。君と出会うまでは。
封を開けて便箋を取り出すと、ふわりと香る甘い匂い。桜の花びらがひとひら、ひらひらと舞い落ちた。
確かに私宛の、見慣れた筆跡をゆっくりと追う。
丁寧で柔らかな文字、軽快に綴られる飾らない言葉。
頁をめくるたび、便箋がカサカサと擦れる音が静かな部屋に響いていく。
手触りの良い紙の質感を指で楽しみながら、最後の文字を読み終えた。
「春が好きだ」と君は言う。
春の匂いを君は嗅ぐ。芽吹く緑や花の色を君は楽しむ。暖かい陽射しに幸せを感じ、雨や雷さえも喜びに変えてしまう。
その楽しげな様子に何度救われたことか。
いつか君は、「あなたの手紙は冬の匂いがする」と嬉しそうに言っていたよね。
ああそうか。君の手紙からするこの優しい香りが、春の匂いなんだね。
落ちた花びらをそっと手にして目を細める。
私はきっとまた、ここで静かに春を待つ。
『春恋』
桜の色が好き
桜の香りが好き
淡くてやわらかくて繊細で可愛らしいその雰囲気が好き
桜が散っていくときが好き
桜の木の下の、舞い落ちた花びらの絨毯が好き
一斉に花を咲かせては短い命をひらひらと散らしていく、永遠にできないその美しさが好き
青空に映える桜も
雨に濡れる桜も
月夜に淡く浮かぶ桜も
その優しい薄紅色に
甘く柔らかな香りに
風と共に浴びる花びらに
ずっと、どうしようもなく心惹かれている
『桜』
空に向かって息を吐く。
白くなった水蒸気がふわふわと消えていく。
まだ寒いなあ、と思う。
空に向かって深呼吸する。
寝不足の両目に太陽の眩しさが刺さる。
今日も頑張るか、と呟く。
空に向かって大きく伸びをする。
どこかで雀の鳴く声が聞こえた。
可愛い囀りに顔も綻ぶ。
今日も今日とて空の下。
みんなどこかで頑張っている。
『空に向かって』
忘れたくないこと。
誰かの優しさ。あの子の薄紅のほっぺ。
可愛いお手手に乗せられた小さな飴玉。
季節の香り。桜の木の下。
桜色のトンネルを見上げて吸い込んだ
甘い懐かしい桜餅のにおい。
朝焼けの空。真っ赤な夕日。
月明かりに照らされた街並みを行きながら
夜の星々に紛れて隠した本音。
大切な思いは残したい。
薄れないように、埋もれないように。
何気ない幸せの瞬間を刻み込みたい。
色褪せないように、ずっと覚えていられるように。
私の頭の中の、記憶の本棚に仕舞い込んである、
古びた日記の一頁にそっと書き記していく。
『記憶』
あの人はいつも花の香りがする。
あの人が現れると私は匂いで分かる。
花の香りを辿っていけばあの人がいる。
凛として美しいその立ち姿に、私はいつも一輪の花を想起する。気高く研ぎ澄まされた、それでいて柔らかくあたたかな色味を持つ花を。
あの人が振り返ればその艶やかな長い髪もふわりと円を描き、流動した空気に乗って届く花の香りの濃度がわずかに増す。
その姿を目の前にすれば、漂う香りは私の鼻腔を満たして脳まで届き、肺を通過して全身を巡り始める。
この優しい香りは一体どこから来ているのだろう。
その髪。身に着けているもの。首筋。
もし、この人自身の香りなのだとしたら。
そこまで考えて、私は切り揃えたばかりの前髪をそわそわと触る。
私を呼ぶ声が花の香りと共に届く。あなたは私のことをいつまでも幼い頃の愛称で呼ぶ。
私はもう小さな子どもじゃないのに。
それでもどうしても、その香りに惹き寄せられて、その柔らかい呼び声に顔が綻んで。
私はいま確かに
花の香りに恋をしている。
『花の香りと共に』